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ローマ公教要理 十戒の部 第二章 第一戒 1-15 | 第一戒は十戒の中で最大の掟、聖人たちと天使に対する崇敬

 十戒の部 目次

第二章 第一戒
あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出したあなたの神である主は、私だ(出20・2、第5・6参照)

1 第一戒の意味と内容

 司牧者は信者たちが「あなたの神である主は、私だ」というみことばをつねに心にとどめておくように、できるかぎりの努力をしなければならない。かれらはこのことばから、立法者は自分たちを造り保たれる創造者であることを理解するであろうし、そして、「主はわれらの神、われらは主の牧場の民、そのみ手のむれ」(詩95・7)ということばを正しく口にすることであろう。このことばを熱心にくりかえし教えることは、信者たちをいっそうすすんで掟を守るようにし、また罪から遠ざからせるために効果がある。

 つぎに、「あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出した……」というみことばは、エジプト人の支配から解放されたイスラエル人だけについて言われているように見えるが、しかしすべての人の救いの内面に注目するとき、これはエジプトでの奴隷状態ではなく罪の国とやみの権力から神によって救い出され神の愛する子の国へと移されたキリスト者(コロ1・13参照)によりよくあてはまるのである。預言者イエレミアはこの恵みの偉大さを見て、つぎのように預言している。「それでも、『イスラエルの子らを、散らされた北の国と、すべてのほかの国々から導き出された、生きておられる主に誓う』と言う日が来る―主のお告げ―。そして私がかれらの父に与えた地にかれらを連れもどす。見よ、私は数多い漁夫をおくる―主のお告げ―。それらがかれらをすなどるだろう」(イエ16・14~16)。

 実際、いとも慈悲深い御父は散っていた子らを御子をとおしてひとつにお集めになり(ヨ11・52参照)、もはや罪の奴隷ではなく義の奴隷として(ロ6・17~19参照)「主のみ前に、生涯、聖と義とをもって、おそれなく仕えさせてくださる」(ル1・74~75)のである。

2 第一戒が信者に求めていること

 したがって信者は、楯となってすべての誘惑に抵抗しなければならない。聖パウロは、「罪に死んだ私たちが、どうしてまだその中で生きられよう」(ロ6・2)と言っている。われわれはもはや自分のものではなく、われわれのために死に復活されたキリストのものである(コ②5・15参照)。われわれの主なる神ご自身がご自分の御血をもってわれわれを買い取られたのである(使20・28参照)。どうしてわれわれの主なる神に対して罪をおかし、かれを再び十字架につけることができようか(ヘ6・6参照)。われわれは実際に自由の身であり(ガ4・31参照)、以前に不義のために自分の肢体を用いたように、今、聖徳に至る義のために役だてるようにすべきである(ロ6・19参照)。

私以外の、どんなものも神とするな(出20・3)

3 第一戒で命じられていることと、禁じられていること

 司牧者は、十戒のはじめの部分では神に関することが言われ、後の部分では隣人に関することが言われていることを教えなければならない。このように配置されたのは、隣人に対してなすべき事柄は神に起因しているからである。実際われわれは神のために隣人を愛し、神の掟に従って隣人を愛するのである。そして神に関することは第一の石板にしるされていた。

 つぎに司牧者は、第一戒にはひとつは命じられ、他は禁じられている二つの内容が含まれていることを教えるべきである。つまり一方では、「私以外のどんなものも神とするな」と言われ、それと同時に、「真の神である私を拝み、他の神々に礼拝をささげるな」と言われている。

4 第一戒には信仰、希望、愛が含まれている

 第一戒の第一部には、信仰、希望、愛の掟が含まれている。われわれは神という場合、かれが不動、不変のお方で(マラ3・6参照)、永遠に同一のものとしてとどまり(詩102・28参照)、誠実でなんらの不義もない正しいお方であること(第32・4参照)を告白するのである。だからこそわれわれは神のみことばに同意し、こうして必然的にかれに対して全き信仰をもち、かれの権威を認めるのである。また神が全能で慈愛深く、恵みを容易に喜んでお与えになることを知る人で、かれに全希望をかけない人がいるであろうか。さらに、神の慈しみと愛の宝がわれわれに注がれるのを見たものは、必ずやかれを愛さずにはいられないであろう。そのため神は、聖書で掟をお与えになる場合、そのはじめと終りに、「私は主である」(レ19の3・10・12・16・25・28・30・36・37)とおおせられている。

5 否定形で言われているわけ

 第一戒の第二部は、「私以外の、どんなものも神とするな」である。立法者がこのような表現様式をお用いになったのは、「私を唯一の神として礼拝せよ」という形で言明されたことが十分に説明されていなかったからではない。もし神があるとすれば、それが唯一であることは明らかである。こう言われているのは、真の神を礼拝すると公言しながら、多くの神々をあがめていた人々の迷妄を取り除くためであった。このような人々はイスラエル人の間にも存在しており、かれらはエリアが咎めているように、どっちつかずにびっこをひいて歩いていた(列①18・21参照)。またサマリア人も同様で、かれらはイスラエルの神と異邦人の神々とを礼拝していた(列②17・33参照)。

6 第一戒は十戒の中で最大の掟である

 以上の説明に加えて、第一戒は順序からだけでなく、その内容、尊厳さ、卓越性からいっても、第一のそして最大の掟であることを教えるべきである。実際神は、主人や王が受けるよりもさらに深い愛と服従とをわれわれからお受けになるのが当然である。神はわれわれを造り、治めておられる。われわれは母の胎内にいる時からかれに養われ、かれによってこの世に生を得た。またわれわれの生命と生活に必要なものを供給してくださるのもかれである。

7 この掟にもとるおもな行為

 信仰、希望、愛をもたないものは、この掟にそむいており、かれらの罪はきわめて広い範囲にわたっている。このような人々には、聖なる母である教会が信ずべきこととして教えることを信じないで異端に陥る人、夢判断や占い、その他のむなしい事柄を信じる人、自分の救いについて失望し神の慈愛に依り頼まない人、富だけを頼りにする人、健康や体力を頼りにする人がいる。これらの罪については、罪や悪習を取り扱う著者たちがさらにくわしく説明している。

8 聖人たちに対する崇敬について

 第一戒の説明にあたって、聖なる天使や、天国の栄光を享受している至福な霊魂たちに対する崇敬や祈願、またかれらの体や聖なる灰に対する尊敬はカトリック教会がつねに実行して来たことであり、第一戒にそむくものではないことをはっきりと教えなければならない。王が触れを出してだれも自分を王として認めずまた王としての尊敬と栄誉を払わぬように命じたり、あるいは自分の行政官たちが尊敬されるのを欲しないなどと想像するような愚かものはいないであろう。キリスト者は旧約の聖人たちの例にならって天使を拝むとは言っても(創18・2、民22・31、ヨズ5・14参照)、かれらは神にささげるような礼拝を天使にささげているのではない。時として天使は人間が自分たちを拝むのを拒んだと書かれているが(黙19・10、22・8~9参照)、かれらは神だけにささげられるべき礼拝が自分たちに向けられるのに反対して、そうしたのだと解釈すべきである。

9 天使に対する崇敬について

 「唯一の神に世々にほまれと光栄とがあるように」(ティ①1・17)と言った聖霊はまた父母を敬い(出20・12参照)、年寄りを尊敬するように命じている(レ19・32参照)。さらに、聖なる人たちは唯一の神を礼拝していたが、聖書にあるようにかれらは王たちも拝んでいた。つまりかれらの前にひれ伏していた(創23・12、サ①24・9、25・23、サ②9・6と8参照)。神がこの世を治めるためにお用いになる王がこれほどの尊敬を受けたとするならば、神がご自分の使者としてお立てになり、単にご自分の教会だけでなく、その他の事柄を治めるためにかれらの業をお用いになり、またわれわれの目に見えなくともその働きによって、日日、心身の大きな危険から救ってくれるこの至福な霊、天使に対し、その尊厳が王たちにまさるものであるだけに、それだけ深い尊敬を払わずにはいられないのである。

 さらにかれらがわれわれに対してもっている愛、聖書から容易に理解されるように(ダ10・13参照)かれらに託された領域のために祈る愛について考えるべきである。また天使が自分の守護する人々に対しても同様にすることは疑いないところである。実際かれらはわれわれの祈りと涙を神にささげる(卜12・12参照)。そのため主は福音書で、小さなものをつまずかせてはならない、かれらの天使たちは天においてつねに天におられる御父の御前に立っているのだから、とおおせられている(マ18・10参照)。

10 天使に対する祈願

 また天使の加護を祈らなければならない。それはかれらがつねに神を見、また自分に託されたわれわれの救いの庇護を喜んで引き受けているからである。聖書は天使に対する祈願が行われたことを証明している。たとえばヤコボは自分と格闘した天使に、自分を祝福するように願い、はては強制している(創32・27参照)。かれは自分を祝福するまでは離さないと言い、またかれが見た天使だけでなく見たことのない天使にも祝福を願い、「すべての悪から私を救われたみ使いが、この若者を祝福せられるように」(創48・16)と言っている。

11 聖人たちへの祈りと聖遺物の崇敬について

 以上のことから、主において死んだ聖人たちを崇敬しかれらに祈ること、またかれらの聖遺物や聖なる灰をあがめることは、決して神の栄光を損なうものではないと結論できるであろう。むしろそれが人々に希望をもたせ、それを強め、また聖人たちの模倣をすすめるものであればあるほど、神の栄光は高められる。なおこの崇敬は、ニケア、ガングレ、トリエントの諸公会議や聖なる教父たちの権威によって承認されている。(1)

訳注
(1) Concilium Tridentinum, Sess. XXV; DS 1821-1822

12 このような信心の妥当性について

 司牧者はこの真理に反対する人々をより深い知識をもって反駁するために、とくにビジランチウスに対する聖ヒエロニムスの著作やダマスケヌスの著作を読むべきである。かれらがあげる理由に加えて重要なことは、この信心の習慣は使徒から受け継がれたもので、神の教会においてつねに維持され実行されて来たということである。しかし聖人たちの賛美をみごとに歌う聖書の証し以上に確実かつ明白な証明はないであろう。実際、聖書はある聖人たちを称揚している。だとするならば、聖書がたたえている聖人たちに対し人々が特別の栄誉をささげてはならないというなんらかの理由があるであろうか。さらに聖人たちが人々の救いのため絶えず祈り、神はかれらの功徳と寵愛のためにわれわれに多くの恵みをお与えになるということからも、聖人たちをあがめ、かれらに祈らなければならない。

 またひとりの罪人が回心することによって天において喜びがあるとするならば(ル15・7参照)、天の住民たちは回心する人々を助けずにはいられないであろう。依頼を受けたかれらは罪のゆるしを願い、われわれに神の恵みを回復させずにはおかないであろう。

13 聖人たちへの祈願は信仰の不足によるものではない

 ある人々が主張したように、神は仲介者なしにわれわれの祈りをお聞きになるのであるから聖人たちによる庇護は余分のものであると言う人があるが、聖アウグスチヌスはこれら不信仰者の考えを簡単に反駁し、神は多くの恵みを仲介者や嘆願者の助けと奉仕がないかぎりお与えにならない、と言っている。(2) このことは、あの有名なアビメレク(創20・17参照)やヨブの友人たち(ヨブ42・8参照)の例で確認されている。つまり神は、アブラハムとヨブの祈りがあったからこそ、かれらの罪をゆるされたのである。

 また聖人たちを、仲介者、保護者にするのは信仰の不足と無力のためであると言う人がいるが、かれらは百夫長の模範についてなんと答えるのであろうか。かれは主が感嘆するほどの信仰をもっていたにもかかわらず(マ8・8~10参照)、病気のしもべの回復を願うためにユダヤ人の長老たちをイエズスのもとにおくっているではないか(ル7・3参照)。

訳注
(2) S. Augustinus, Quaest. 149, super Exodum

14 キリストによる仲介も損なわれない

 たしかに、われわれに与えられた仲介者は主キリストただひとりであり(ティ①2・5参照)、かれだけがその御血をもってわれわれを天の御父と和睦させ(ロ5・9~10参照)、永遠の贖いをなしとげられ(ヘ9・12参照)、ただ一度だけで永久に至聖所に入り、われわれのためにつねに取り次いでおられるとはいえ(ヘ7・25参照)、そのため聖人たちの取り次ぎを求めることは許されないということには決してならない。なぜならもしイエズス・キリストがわれわれの唯一の仲介者であることから聖人たちの助けにすがってはならないのであれば、使徒聖パウロはあれほど熱心に、生きている兄弟たちの祈りを自分のために求めることはしなかったであろう(ロ15・30、エ6・18~19、テ②3・1~2参照)。というのは、生者の祈りは天国にいる聖人たちの祈りと同じように、仲介者キリストの栄光と尊厳とを減少させるはずだからである。

15 聖遺物のもつ効力について

 ところで、目や手足など、なくしていたあらゆる肢体がもとの状態にもどされたり、死者が生き返ったり、人間の体から悪魔が追い出されるなどの不思議なことが聖人たちの墓で行われるのを知って、聖人たちに対する当然の崇敬を認め、またかれらがわれわれのために引き受ける庇護に信頼しないものはいないであろう。聖アンブロシウスや聖アウグスチヌスは、多くの人のように聞いたり読んだりしたことではなく、自分で見たことを書き伝えている。(3)

 これ以上の説明は不要であろう。聖人たちの衣服(列②2・13参照)や手ぬぐい(使19・12参照)、その影(使5・15参照)が、かれらの存命中に病気をなおし、体力を回復させたとするならば、神が聖人たちの聖なる灰、骨、その他の遺物をもって同じような奇跡を行わないと、だれがあえて言えるであろうか。エリゼオの墓の中にはからずも投げ込まれ直ちによみがえったあの死人は(列②13・21参照)、このことを証明している。

訳注
(3) S. Augustinus, epist et sermo 95; de Civ. Dei, lib. 22 et epist. 137