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ローマ公教要理 十戒の部 第四章 第三戒 12-28 | 霊的安息とは、天的安息とは、安息日が主日に変わったわけ、主日に禁じられていること

 十戒の部 目次

第四章 第三戒 安息日を守り、それを聖とせよ――

12 第三戒の第二部について

 この掟の第二部は、神が第七日目をご自分の礼拝のためにとっておかれたことを教えている。それはつぎのように言われている。「六日間労働し、自分のすべての仕事をしてもよい。しかし七日目はあなたの神にささげられた安息日である」(第5・13~14)。このことばは、われわれが安息日を神にささげられたものとし、その日、敬神の務めを果すように、そしてこの日を、主の安息の記念とするように命じている。

13 安息の日の選択と決定について

 さて、この日が神の礼拝のために定められたのは、無教養な人に自分の考えで礼拝の日時を選ばせることはエジプト人の祭式をまねる危険があり、適当なことではなかったからである。こうして七日のさいごの日が神の礼拝のために定められたのであり、このことは神秘に満ちている。そのため神は出エジプトの書(31・13参照)やエゼキエルの書(20・12参照)において、この日をしるしと呼んでおられる。「私の安息日をよく守れ。それは、私とあなたたちとその代々の子孫の間のしるしであり、あなたたちを聖とするのは私、主であると知らせるためである」(出31・13)。

14 安息日はしるしである

 このように安息日は、この日が神にささげられているのを見て、人々が神に自分をささげ、神の御前に自分を聖とすべきことを思い起こさせるしるしであった。つまり安息日が聖であるのは、人々がとくに聖性と敬神のために用いなければならない日だからである。

 つぎに安息日は、この感嘆すべき世界創造のしるしであり、いわば記念である。

 さらに安息日は、イスラエル人にとってはかれらが神のお助けによってエジプトでの奴隷状態の苛酷なくびきから解かれ自由にされたことを思い起こさせるしるしであった。これについて神はつぎのようにおおせられている。「自分もエジプトの地で奴隷であったこと、そしてあなたの神である主が、強い手と、のべた腕とで、そこからみちびき出されたことを思い起こせ。あなたの神である主が、安息日を守るようにと命じられたのはこのためである」(第5・15)。

15 霊的安息とは

 安息日はまた霊的安息と天的安息のしるしである。霊的安息とはある聖なる神秘的な安息で、古い人間がキリストとともに葬られ新しい生命に入り(ロ6・4参照)、キリスト教的信仰に基づく行為にはげむことによって得られる。信者たちはもとやみであったが、いまは主において光であり、光の子としてすべての善と正しさと真実において歩むべきであり、実を結ばないやみの行いに加わってはならないのである(エ5・8~10参照)。

16 天的安息とは

 天的安息とは、聖キプリアヌスが、「したがって神の民のために七日目の安息日が残されている」(ヘ4・9)ということばの説明においてのべているように、われわれが罪を根絶されて、キリストとともに生き、すべての善を享受する生命のことである。このことをイザヤは、「そこには、きよい道があって、とうとい道とよばれ、・・・・・・そこには、もう、ししはなく、どんな猛じゅうも横ぎらず・・・・・・」(イ35・8~9)と言っている。実際、聖人たちは神をあおぎ見、すべての善に満たされる。したがって司牧者は、「私たちはその休息に入ろうと努めなければならない」(ヘ4・11)ということばをもって信者たちをはげまし元気づけなければならない。

17 その他の祝祭日

 ユダヤ人は第七日目のほかに、神の定めによって決められた他の祝祭日をもっており、それによって偉大な恵みの記憶を新たにしていた。

18 安息日が主日に変わったわけ

 さて神の教会は、安息日の代わりに主日を守り聖とすることをよしとした。それは、光がはじめて世界を照らしたのがこの日であり、またわれわれの贖い主のご復活によってわれわれのために永遠の生命の門戸が開かれ、われわれの生命がやみから光にうつされたのもこの日だからである。そのため使徒たちはこの日を主の日と呼んだのである。

 さらに聖書を見てもこの日が荘厳な日であることが分かる。なぜならこの日は世界創造がはじめられた日であり、また聖霊が弟子たちに与えられた日だからである(使2・1~4参照)。

19 教会の祝祭日

 教会のはじめからまたそれ以後において、使徒たちおよびわれわれの聖なる先祖たちは聖なる神の恵みを記念するために、他の祝祭日を定めた。これらの祝祭日のうちもっとも荘厳に祝われる日に、われわれの贖い主の神秘を記念する祝祭日、つぎに聖なる処女マリアにささげられた祝祭日、使徒たちや殉教者たち、またキリストとともに支配する他の聖人たちのための祝祭日がある。そのような日に信者たちは、聖人たちに勝利をお与えになった神のご慈愛をたたえ、また聖人たちに払うべき尊敬をささげ、かれらを模倣するようはげまされるのである。

20 週日を大切にすること

 さて、この掟を守る大きな動機は、この掟の「六日間は労働してもよい、しかし七日目はあなたの神である主のための日である」(出20・9)ということばに含まれているのであるから、司牧者はこの部分を入念に説明しなければならない。このことばは、信者たちが仕事もせずに無為に日をすごすことなく、むしろ聖パウロのことばを思い起こして、かれが命じているとおりそれぞれの仕事につき(テ①4・11参照)自分の手で働くよう(エ4・28参照)、かれらにすすめるべきことを教えている。

 また、神はこの掟をもって六日間はわれわれの労働をするようにお命じになっているが、それは主日以外の日に行いまたはなすべきことを主日に持ち越さないようにするため、またわれわれの心が神的事柄に対する配慮や熱心さからそらされることのないためである。

21 主日に禁じられていること

 つぎに、この掟の第三部を説明すべきであるが、この部分は安息日を聖とする方法についてのべている。それもとくに、安息日には何が禁じられているかを教えている。「なんの労働もするな。あなたも、あなたの息子も娘も、あなたの男奴隷も女奴隷も、あなたの牛もろばも、あなたの家畜もみな、あなたの町に住んでいる外国人も休まねばならない」(第5・14)。このことばはまず、神に対する礼拝を妨げるものは一切避けなければならないことを教えている。したがって肉体労働のたぐいのものが禁じられていることは容易に分かる。それは肉体労働がそれ自体として恥ずべきものであるとかあるいは悪いとか言うのではなく、この掟のめざす神の礼拝からわれわれの心をそれさせるからである。したがって信者たちは、神的事柄に対する心の熱心さを奪うだけでなくわれわれを神の愛から全く引き離してしまう罪を、なおいっそう避けなければならない。

22 礼拝のための労働は禁じられていない

 しかし神の礼拝のための仕事や労働、たとえば祭壇の飾り付け、祝祭日のための教会の装飾などは、体を使ってすることではあっても禁じられていない。主は、神殿で働く司祭たちは安息日の掟を破らないし、罪もおかさない、とおおせられている(マ12・5参照)。

23 その他、主日に許されていること

 また、主日に放置しておくならば失われてしまうようなものを収穫する仕事も禁じられていない。教会ははっきりとそのような仕事を許可している。また主は福音書において、その他多くのことを安息日になすことをお許しになったが、司牧者はそれらをマテオ福音書(12・1~8など参照)やヨハネ福音書(5・10~17参照)の中に見いだすことができるであろう。

24 家畜も休ませること

 神は安息日の遵守を妨げるものを何も言い落とすまいとして、家畜についても触れておられる。実際、人間はこのような動物のために安息日の遵守を妨げられる。というのは、安息日に家畜を何かの使役に用いる場合、動物を扱う人間も必然的に働かざるをえないからである。家畜は自分で働くことはできず、それを動かす人間を助けるだけである。人間はだれも安息日に働くことは許されないのであるから、人間に労働力を提供する家畜も働くことはできない。このように、神はこの掟をもって家畜にも働くことを免除されたのであるから、それだけに、家畜を仕役に用いる人間はそれらに対して残忍なことをしないよう、とくに注意しなければならない。

25 主日になすべきこと

 主日にあたってキリスト者はどのような業や行為にはげまなければならないか、それを教えることを忘れてはならない。その行為とは、神の神殿に参り信心深い真心からの注意をもって至聖なるミサのいけにえにあずかること、われわれの救いのためまた魂の傷の治癒のために制定された教会の聖なる秘跡にしばしばあずかることである。

 さらに、キリスト者にとっては自分の罪をしばしば司祭に告解すること以上にすぐれたこと、有益なことはありえないのであるから、司牧者はそれを実行するよう信者たちをはげますべきであり、それを証明するための材料として、告解の秘跡のところで命じられ言われていることを用いることができる。司牧者はまた、信者たちに告解の秘跡をすすめるだけでなく、ひんぱんに聖体の秘跡にあずかるようくりかえし熱心にすすめるべきである。

 また、信者たちは注意深く熱心に説教を聞かなければならない。キリストのみことばを無視したり、ぞんざいに聞いたりすること以上に腹だたしくまた不相応なことはない。さらに信者はしばしば祈りや聖務にあずかり、キリスト教的生活の規則を熱心に学び、貧しい人々や困っている人々に施しをし、病人を見舞い、苦しみうちひしがれている人々を慰めるなどして、慈善の業にはげむよう、とくに心がけなければならない。これについて聖ヤコボは、「父なる神のみまえに清くけがれのない宗教のおこないとは、貧しい孤児とやもめを見舞うことである」(ヤ1・27)と書いている。以上のべたことから、何がこの掟にもとるかは容易に理解できるであろう。

26 神が主日をお定めになったわけ

 なお、この掟の命じることを最大の努力と注意とをもって守るよう信者たちに納得させるため、その理由および証明を取り出すことのできる何冊かの本を手もとにおいておくこともまた、司牧者の義務である。信者たちを納得させるためには、われわれが一定の日を定めその日全部を神の礼拝にあて、数限りない多大な恵みをお与えになるわれわれの主を認め、あがめ、礼拝することがどれほど正しくまた理にかなっているかを、はっきりと知らせ、分らせることが大切である。たとえ神が毎日われわれに敬神の業をささげるようお命じになったとしても、われわれは喜びすすんでかれのご命令に従い、われわれに対するかれの多大な無限の恵みに答えるため、あらゆる業をささげるべきではなかろうか。しかし神はご自分の礼拝のためにわずかの日しかお定めにならなかったのであるから、その義務の遂行をないがしろにしたりあるいはしぶったりすることはできない。この義務を怠ることは重大な罪をおかすことになるのである。

27 第三戒によってもたらされる恵み

 つぎに司牧者は、この掟の効力がどれほどのものであるかを教えなければならない。この掟を正しく守るものは、神の御前に出てかれと語るのである。実際、われわれは祈ることによって神のご威光をあおぎ見てかれと語り、また説教を聞くことによって信心深く良心的に神のことを語る説教師の口をとおしてわれわれの耳に達する神のみ声を聞くのである。また祭壇上の犠牲に現存される主キリストを礼拝する。第三戒を注意深く守る人はこれらの恵みを大いに享受するのである。

28 この掟をないがしろにする人々について

 しかしこの掟を全くかえり見ない人々は、神と教会に従わずまた神の掟を受け入れようともしないのであるから、神と聖なる掟の敵である。このことは、この掟がなんの労苦もなしに遵守できるものであるからなおさらである。われわれは神のためならばどんなに困難なことでも引き受けるべきなのに、神はわれわれに労苦を課されず、かえって安息日に地上的な心配事から解放され休息するようにお命じになったのである。したがってこの掟の命じることを拒むのは、きわめて無謀な考えである。民数の書には(15・32~36参照)、この掟をおかした人に神がお与えになった罰がしるされているが、われわれはそれを教訓にしなければならない。

 したがってこのような罪に陥らないためには、「記憶せよ」ということばをしばしば心の中でくりかえし、また右にのべたような主日の遵守によって得られる大きな恵みおよび利益に注目することは大いに有益である。熱心なすぐれた司牧者はこれらに類する多くの事柄に留意し、機会に応じてそれらを深く広く説明できるであろう。