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ローマ公教要理 十戒の部 第五章 第四戒 1-12 | 神に対する愛と父母に対する愛、父母を特別に尊敬するわけ

 十戒の部 目次

第五章 第四戒 父母をうやまえ、そうすれば、あなたの神である主があなたにあたえる地で長生きするだろう(出20・12、第5・16参照)

1 神に対する愛と父母に対する愛

 これまでにあげた三つの掟は、その内容と尊厳さの点で最高のものであるが、これから説明する掟は必要性からいってそのつぎに来る。前者は神つまり目的に関する掟であり、後者は隣人に対する愛を教えている。この隣人愛を押し進めていくと、その愛の究極つまり原因である神に到達する。そのため主キリストは、神に対する愛の掟と隣人に対する愛の掟は互いに似ているとおおせられた(マ22・39参照)。これから説明する掟がどれほどの利益をもたらすかは、いまさら言うまでもないが、この掟は豊富な果実をもたらし第一戒に対する従順とその遵守を表わすしるしのようなものである。聖ヨハネは、「目で見ている兄弟を愛さない者には、見えない神を愛することはできない」(ヨ①4・20)と言っている。それと同じように、神によって愛すべき両親はほとんどいつもわれわれの眼前にいるのに、かれらを敬わずまた尊ばないとするならば、だれの目にもうつらない最高かつ最大の父である神(マラ1・6参照)に対してどのような賛美、礼拝をささげるというのであろうか。以上のことから両者の掟が互いに関連をもっていることは明らかである。

2 第四戒の範囲

 第四戒の及ぶ範囲は非常に広い。実際われわれを生んだ人のほか多くの人々を、その権威、尊厳さ、必要性、またある職務や責任の故に、両親のように敬わなければならない。さらに両親およびすべての長上の労苦を軽減するようにしなければならない。かれらがもっとも念じていることは、自分の権威の下にある人々が正しくまた神の掟に従って生きることである。そしてこのような配慮は、両親を敬うよう神がお命じになっていることをすべての人が認識するならば、きわめて容易に実現されるであろう。

 このような認識に到達するためには、第一の石板の掟と第二の石板の掟との相違を知る必要がある。

3 十戒は二枚の石板に刻まれていた

 そのため司牧者はまず、神の十戒は二枚の石板に刻まれていて(出24・12、第4・13、5・22、9・10参照)、その一枚には、聖なる教父たちが教えているように、すでにのべた三つの掟があり、他の一枚には残りの掟が刻まれていたことを教えるべきである。このような描写はひじょうに適切なもので、掟の順序そのものによって掟の重要性を区別している。聖書で神の掟によって命じられあるいは禁じられていることはすべて、この両者のどれかに関係している。つまり神に対する愛と隣人愛のどれかがすべての掟に見られる。そしてはじめの三つの掟は神に対する愛を教え、つぎの七つの掟は人々が互いに実行すべき事柄を含んでいる。したがってある掟は第一の石板に他の掟は第二の石板にと分けて刻まれたのは理由のないことではない。

4 隣人愛は神に対する愛を前提とする

 すでにのべたはじめの三つの掟は、その内容として神つまり最高の善を取り扱っており、その他の掟は隣人の善をその内容としている。そして前者においては最高の愛が、後者においてはそのつぎに来る愛が示されている。また前者は目的を、後者はこの目的に到達するための事柄を取り扱っている。

 さらに、神に対する愛は神ご自身によっている。神は他のもののためではなく、ご自身のために最高に愛すべきお方だからである。しかし隣人に対する愛は神に対する愛をその源とし、またそれを不変の尺度としている。われわれが両親を愛し、長上に従い、目上の人を尊敬するのは、とくに神がかれらをそのようなものとしてお定めになり、他の人々の上にお立てになって、かれらの業をとおして他の人々を治め保護されるからである。われわれがかれらを尊敬するのは、神がかれらを尊敬を受けるにふさわしいものとされたからである。したがってわれわれが両親に払う尊敬は人間に対してというよりはむしろ神に対して払うようなものである。実際マテオ福音書は長上に対する尊敬についてのべながら、そのように教えている。「あなたたちを受ける人は、私を受けるのである」(10・40)。また聖パウロはエフェゾ人への書簡で、奴隷たちに、つぎのようにさとしている。「奴隷よ、キリストに従うように、おそれと尊敬と真心とをもって、この世の主人に従え。目の前だけで仕えるのではなく、人の気に入るためでもなく、心から神の御旨を果すキリストの奴隷として働け」(6・5~6)。

5 神に対する愛と隣人愛の限界

 しかし神にささげるいかなる賛美、信心、礼拝も十分かれにふさわしいものではなく、また神に対する愛も無限に増していくことができる。したがってわれわれは神に対する愛を日ごとに熱烈にし、心をつくし、魂をつくし、力をつくしてかれを愛さなければならない(第6・5、マ22・37、マル12・30参照)。これに反して隣人愛には限界がある。すなわち神はわれわれに自分自身のように隣人を愛せよとお命じになっている(レ19・18、マ22・39参照)。したがってこの限界を越え、神と隣人とに同じ程度の愛をささげるものは、重大な罪をおかすことになる。主はこうおおせられた。「私のもとに来ても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない」(ル14・26)。またある人が父親の葬式をすませたあとでキリストについて行こうとしたとき、主は、いま言ったような意味で、「死人は死人に葬らせておけ」(マ8・22)とおおせられている。その意味は、マテオ福音書にある、つぎのみことばでいっそう明らかになる。「私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくない」(10・37)。

6 両親に対する愛と神に対する愛

 とはいえ両親に対して深い愛と尊敬をもたなければならないことは明らかである。しかし信仰は、まずすべてのものの父であり創造者である神(第32・6、イ63・16参照)に特別の崇敬と礼拝をささげることを要求する。信仰はまた、天にいます永遠の御父に向かわせる愛をもって死すべき両親を愛するように求めている。したがってもし両親の命令が神の掟に反するようなことがあるならば、子供たちは、「人間よりも神に従わなければならない」(使5・29)という聖書のことばどおり、両親の望みよりも神の御旨を優先させなければならないことは明らかである。

7 敬うとは

 以上の説明のあと、司牧者は第四戒のことばを説明すべきであり、まず、「敬う」とはどのようなことかを説明しなければならない。ある人を敬うとは、その人を栄誉ある人と考え、またその人に属するものを大切にすることである。そして愛、敬意、従順、敬愛などすべては、この尊敬と関連がある。ところでわれわれは両親を深く愛しまたおそれなければならないとはいえ、神の掟では愛やおそれではなく尊敬ということばが用いられていることに注意すべきである。なぜなら人は愛していても必ずしも敬わずまたおそれていても必ずしも尊敬しないのであるが、しかし心から尊敬している場合にはその人を愛しまたおそれるからである。これを説明したあと司牧者は、父母と言われているものはだれか、それについて説明すべきである。

8 父母とは

 掟ではとくにわれわれを生んだ父母についてのべているが、聖書の多くの箇所から容易に分かるように、この父母という語はそれ以外の人々についても言われ、掟はそれらの人々をも含んでいるようである。聖書ではわれわれを生んだ人々のほかに他の種類の父母があり、かれらひとりひとりに対しても尊敬を払うべきことが教えられている。聖パウロのコリント人への書簡から明らかなように、まず教会のかしら、司牧者、司祭たちも父と呼ばれている。「私がこう書いたのは、あなたたちを辱しめるためではなく、私の愛する子としていましめるためである。あなたたちに、キリストにおける守役が一万人あっても、多くの父を持っているはずはない。実に、福音によって、あなたたちをキリスト・イエズスにおいて生んだのは、私である」(コ①4・14~15)。集会の書にも、「名高い人たちをたたえよう、歴代に生きた私たちの先祖の人たちを」(44・1)と書かれている。

 つぎに統治、司法、権威を託され国家を治めている人々も父と呼ばれる。たとえばナアマンはしもべたちから父と呼ばれていた(列②5・13参照)。

 さらに、後見人、財産管理人、家庭教師、教師のように、自分の配慮、信用、誠実、英知の故に他の人々をゆだねられている人々も父と呼ばれている。たとえば預言者の子供たちはエリアやエリゼオを父と呼んでいた。

 さいごに、われわれは老人や年輩の人々も父と呼んでおり、かれらもまた尊敬しなければならない。

 しかしこのようないろいろな父母の中でもとくに、われわれを生んだ父母を尊敬すべきであり、神の掟もとくにかれらについてのべていることを、掟の説明の中で強調しなければならない。

9 父母を特別に尊敬するわけ

 父母は永遠の神のいわば像であり、またわれわれの起源を表わすものである。われわれに生命を与えたのはかれらであり、神はかれらを用いてわれわれに魂と精神をお与えになった。かれらによってわれわれは秘跡へと導かれ、宗教を教えられ、人間として市民としての教育を受け、完全な道徳と聖性をめざして育成されたのである。

 また司牧者は、母という語がこの掟の中に正しく挿入されていることを教えるべきである。この語が入れられたのは、母がどれほどの心配と心遣いとをもってわれわれを胎内に宿してくれたか、どれほどの苦労と苦痛とをもってわれわれを生み育ててくれたか、われわれに対する母の慈愛と献身とを思い起こさせるためである。

10 父母に対する尊敬の行為

 父母を敬うにあたって、かれらに対する尊敬は愛と真心から出たものでなければならない。父母はわれわれを深く愛し、われわれのためにいかなる疲れ危険をもいとわないのであるから、とくにそのような尊敬を払わなければならない。また父母にとって、自分たちが深く愛している子供たちに愛されているのを感じることほど嬉しいことは何もないのである。ヨゼフはエジプトでは王につぐ栄誉と権能をもっていたが、エジプトにくだった父親を手あつく迎えた(創46・29、47・7参照)。またサロモンは母を迎えるにあたって敬意を表わして立ちあがり、かれの右の王座にかの女をすわらせたのであった(列①2・19参照)。

 そのほかにも父母に対してなすべき他の尊敬の行為がある。すべてがかれらに都合よくまた幸せをもたらすように、かれらが人々に尊敬され愛されるように、神ご自身および天国の聖人たちによみせられるように神に懇願することによっても、父母を敬うのである。

 またわれわれの考えを父母の判断や意志に合わせることによって、かれらを敬う。サロモンはそれをすすめて、「わが子よ、あなたは、父のいいつけを聞き、母の教えをあなどるな。それはあなたの頭の愛らしい冠となり、あなたの首のかざりとなろう」(格1・8~9)と言っている。聖パウロも同じことをすすめ、「子供たちよ、主において両親にしたがえ、それは正しいことである。」(エ6・1)と言い、さらに、「子供たちよ、すべてにおいて両親にしたがえ、それは主に喜ばれることである」(コロ3・20)と言っている。またこのことは聖人たちの模範によっても証明されている。たとえばイザアクは父から犠牲のためにしばられたとき、反抗することなくつつましくかれに従ったし(創22・9参照)、またレカブ族は、先祖の命令に決してそむくまいとして、永久にぶどう酒を断ったのであった(イエ35・6参照)。

 なお父母の正しい行為や態度を模倣することも、かれらを敬うことになる。実際、だれかに似たものになろうとすることは、その人を最高に尊敬することである。

 また父母の意見を求め、それに従うことも、かれらを敬うことである。

11 父母の必要を満たすこと

 父母に食べ物や生活必需品を与えてかれらを助け、こうしてかれらを敬う。このことはキリストのみことばによって明らかであり、かれはファリザイ人の不信仰を咎めて、つぎのようにおおせられている。「なぜまたあなたたちは、自分たちのならわしのために、神の掟にそむくのか? 神は、『父母をうやまえ』、また『父や母を呪う者は死刑に定められる』とおおせられているのに、あなたたちはある人が、父や母に向かって、『私があなたを助けるはずのものは供え物にします、といっただけで、もう父母をうやまう義務を免除される』と教えている。こういうふうに、あなたたちは自分のそのならわしによって、神のみことばを無視しているのだ」(マ15・3~6)。

 われわれはつねに父母を敬わなければならないが、とくにかれらが命にかかわる病気にかかっているときには、なおさらそうである。罪の告解や、死を間近にしたキリスト者が授かるべきその他の秘跡をのがすことのないように注意しなければならない。また、信心深く信仰のあつい人々の訪問をしばしば受けられるように配慮すべきである。このような人々は弱い人々を力づけまた忠告をもって助け、よい心構えをもっている人々には不滅のものへの希望をもたせ、人間的な事柄から引き離し全く神にゆだねるようにさせる。こうして、信、望、愛の至福なる友に伴われ宗教に助けられて、死が不可避ならば、それを恐れないだけでなくむしろ永遠の世界へうつらせるものとしてそれを希望しさえするであろう。

12 死んだ父母に対する務め

 さいごに、死んだ父母に対してはかれらを葬い〔(原文ママ)〕葬式をし、墓を大切にし、年忌にはミサをささげ、遺言を忠実に執行することによって、かれらを敬うのである。