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ローマ公教要理 十戒の部 第五章 第四戒 13-22 | 司教・司祭・長上を敬う、父母を敬う人々の受ける報い、親不孝者の受ける罰

 十戒の部 目次

第五章 第四戒 父母をうやまえ、そうすれば、あなたの神である主があなたにあたえる地で長生きするだろう(出20・12、第5・16参照)

13 司教、司祭を敬うこと

 われわれを生んだ人々だけでなく、その他父と言われる人々つまり司教、司祭、王、君主、為政者、後見人、管理人、教師、指導者、老人、その他これに類する人々をも敬わなければならない。かれらはわれわれの愛、従順、奉仕の果実を受けるにふさわしいものであるが、しかし、人によって同じではない。

 司教および他の司牧者については、「よく支配する長老たちは二重のほまれを受ける値打ちがある。とくにことばと教えとで働く人は〔そうである〕」(ティ①5・17)と書かれている。ガラツィア人が聖パウロに対してどれほどの愛情をもっていたか、かれらの好意について聖パウロはつぎのようなすばらしい証言をしている。「あなたたちが、できれば自分の目をえぐって私に与えようとまで思っていたことを、私は忘れていない」(ガ4・15)。

14 司祭たちを助け、これに従うべきこと

 また司祭たちにも生活必需品を供給しなければならない。聖パウロは、「自分で費用を出して軍隊に務めるものがあろうか」(コ①9・7)と言っている。集会の書では、「主を畏れ、司祭をうやまい、命令されている通りのものを司祭に与えよ。つぐのいの生贄、供物の肩の肉、成聖の生贄、聖いものの初なり、それを与えよ」(7・31)と言われている。また使徒は、司祭たちへの従順を命じている。「あなたの指導者の言いつけをきき、それに服従せよ。かれらは責任を問われる人として、あなたたちの霊魂を警戒しているからである」(ヘ13・17)。さらに主キリストは悪い司牧者にも従うようにお命じになり、つぎのようにおおせられている。「律法学士とファリザイ人とはモイゼの教壇を占めているから、かれらのいうことをみな守り行え。しかしかれらのおこないにならってはいけない。かれらは口でいうだけで、おこなっていないからである」(マ23・2~3)。

15 長上を敬うこと

 王や君主、為政者およびその他、われわれが従うべき権威者についても同様に言える。かれらに対してつくすべき敬意、敬愛、尊敬について、聖パウロはローマ人への書簡の中でくわしくのべている(13・1~7参照)。また別のところでは、かれらのために祈るようにすすめている(ティ①2・1~2参照)。聖ペトロはこう言っている。「あなたたちは、主のために人間の立てた制度にしたがえ。主権者として王に、そして王からおくられたものとして上長にも服従せよ」(ペ①2・13~14)。実際、かれらに払う尊敬は神にささげられるのである。人間のすぐれた尊厳さがとうとばれるのは、それが神の権能の形象であるからである。長上を敬うことによってわれわれはまた、かれらに公職をゆだね、ご自分の権能の使者としてかれらをお用いになる神のみ摂理をあがめるのである。

16 なぜ長上を敬い、これに従うのか

 為政者が不正でつまらない者であってもわれわれが尊敬しているのは、かれらの不正や邪悪ではなく、かれらの中にある神の権威である。また恐らくひじょうに不思議に思われるかもしれないが、かれらがわれわれに対して悪意に満ちた敵対心をもっていたりあるいは敵対関係にあったとしても、それは心からかれらに従わなくともよいという十分な理由にはならない。ダヴィドはサウロがかれを憎み殺そうとしたにもかかわらず、かれに大いに奉仕し、また、「平和を憎む者の中にあって……私は平和を望んだ」(詩120・6~7)ということばで、そのことを教えている。

 しかしかれらが何か不正なことあるいは邪悪なことを命じる場合、そのときかれらは権威によってではなく不正で邪悪な心をもとに行動しているのであるから、決して従ってはならない。

17 父母を敬う人々の受ける報い

 司牧者は以上のことをすべて説明したあと、第四戒を守る人々にどのような報いが約束されているか、またそれがどれほど当を得たものであるかを説明しなければならない。

 さて、その最大の報いは、長寿である。この掟を守るものは長い間、恵みを受け、その記憶は永遠に保たれる。このように父母を敬い、かれらから光と生命を与えられたことを感謝する人は、正しくまたそれにふさわしく長寿を享受する。しかしこの神の約束にはくわしい説明を加える必要がある。つまり約束されているのは至福な永遠の生命だけでなく、この地上における生命も約束されているのである。聖パウロはこのことを説明して、「敬虔はすべてに役だつ。今の命と未来の命とが約束されているからである」(ティ①4・8)と言っている。

18 長寿が与えられる

 ところで、ヨブ(ヨブ3・3以下参照)やダヴィド(詩120・5参照)、また聖パウロ(フィ1・23参照)という聖人たちは死ぬほうを選び、また苦しみや惨めさの中にある人々にとって長生きは楽しいものではないとしても、長寿というこの報いは取るに足りない、軽視すべきものではない。なぜなら「神である主がそれをあなたに与えるであろう」ということばは、生きる時間の長さたけでなく、幸せに生きるための平安、休息、安全を保証しているからである。そのため第二法の書は、「長く生きるであろう」と言うだけでなく、「幸せであるだろう」とつけ加えている。あとで聖パウロも同じことをくりかえしている(エ6・3参照)。

19 早死にすることも恵みである。

 神はこの恵みを親孝行に報いようと、とくにお望みになる人々にお与えになるのだと言える。でなければ、時として父母に対してひじょうに親孝行をした人々が短命であることもあるので、神の約束は忠実でも不変でもないことになるからである。親孝行者が短命なのは、ひとつはかれらの最高の善のため、つまりかれらは徳と掟の道から離れないうちに他界するからである。すなわち悪がかれの心を歪めないように、不実なものがかれの魂を誘うことのないように(知4・11参照)、かれらは取り去られるのである。かれらが早死にするのは、あるいは破壊と混乱とが差し迫っており、その苦痛を味わうことのないように体から解放されるのである。「正しい人は災いのまえに取り去られた」(イ57・1)と預言者イザヤは言っている。それは神が人間の罪を罰する時にあたって、かれらの徳や救いが試されることのないようにするためである。あるいはもっともひどい苦痛の時にあたって、近親者や友人の不幸によってひどい悲しみを受けることのないようにするためである。したがって善人が早死にする時は、大いに恐れなければならない。

20 親不孝者の受ける罰

 親孝行する人々に、その報いと果実が神から約束されているのと同様に、親不孝で人道にそむく子供たちにはもっとも重い罰が待っている。聖書にはつぎのように書かれている。「父あるいは母をののしるものは、死刑にあたる」(出21・17)。「父をしいたげ、母を追い出す人は、けがらわしい不名誉な子である」(格19・26)。「父や母を呪う人は、自分のランプが闇の中で消えるのを見るだろう」(挌20・20)。「父をあなどり、老いた母を見くだす目は、川のからすにえぐり出され、鷲に食われるだろう」(格30・17)。また聖書には、父母を侮辱した子供たちに神の怒りがくだったことがしるされている(創9・22~27参照)。またダヴィドに対する侮辱は罰されずにはいなかった。アブサロンは自分の罪の当然の罰を受け、三本の槍に貫かれて死んだのであった(サ②18・14参照)。

 司祭たちに従わない人々については、「あなたの神である主に仕えるためにそこに立っている司祭……の宣告によらないで、自分勝手に行動する人は、死刑にあたる」(第17・12)と書かれている。

21 子供たちに対する父母の務め

 子供たちは父母を敬い、かれらに従いこれに仕えるよう、神の掟によって命じられているが、父母もまた、子供たちに聖なる規律と道徳を教え、最良の生活の規則を授け、宗教上の教育を与えそれを実行させ、神に対して聖にしておかすべからざる礼拝をささげさせる義務と責任を与えられている。聖書にはスザンナの両親はそのようにしたと書かれている(ダ13・3参照)。

 したがって司牧者は、父母は子供たちの徳、正義、貞潔、節制、聖性の教師にならなければならないこと、とくにかれらがしばしばおかしがちなつぎの三つの欠点を避けるようにすすめるべきである。  その第一は、子供たちに対してあまりに厳しいことばや態度をとらないことである。聖パウロはコロサイ人への書簡の中に、つぎのように命じている。「父たちよ、あなたたちの子供を怒らせるな。それはかれらを落胆させないためである」(3・21)。つまり子供たちが何でも恐れる臆病な活気のない子供になる危険があるからである。したがって、あまり厳しくせず、罰するよりもむしろ矯正するようにすすめるべきである。

22 子供たちに対する態度

 つぎに子供が何かの過ちをおかし、叱責や懲罰が必要な時は、甘やかして寛大にゆるさないことである。子供たちは両親の過度の優しさと寛大さによって悪くなるからである。司牧者は、この過度の優しさを避けさせるため、子供たちに甘すぎたため深い苦しみを味わうことになった大祭司エリの例を思い起こさせるべきである(サ①4・12~18参照)。

 さいごに、これはもっとも恥ずべきことであるが、子供たちの育成および教育において、咎めらるべき計画をもっていてはならない。あまりにも多くの親は、ただ富や金銭、莫大なすばらしい遺産を子供たちに残すことだけを念じ心配し、宗教や信心、りっぱな職業を身につけさせる代わりに、貪欲な心を育て、財産を殖やすように後押ししている。また子供たちの分別や救いについては考慮せず、ただかれらが金持ちで資産家になることだけを願っている。これ以上に嘆かわしいことがありうるだろうか。こうしてかれらは子供たちに自分の富よりもむしろ自分たちの罪と恥ずべき行為を受け継がせ、また天国に案内する代わりに地獄の永遠の苦罰へと導いていくのである。

 したがって司牧者はもっとも適切な教えをもって親たちを教育し、トビアの模範と徳を模倣するようにすすめ(卜4~21参照)、かれらが子供たちを神の礼拝と聖性にふさわしいものとして育て、こうして子供たちから愛と尊敬、従順の豊かな実を受け取れるようにすべきである。