聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

ローマ公教要理 十戒の部 第六章 第五戒 1-12 | 動物を殺すこと、偶発的・間接的・正当防衛のための殺人、怒りについて

 十戒の部 目次

第六章 第五戒 殺すな (出20・13、第5・17参照)

1 第五戒の恵みと効果

 「かれらは神の子らと呼ばれるであろう」(マ5・9)と言われているように、平和のために働く人々には大きな幸せが約束されており、このことはこの掟を熱心にまた正確に信者たちに説明するよう、司牧者を大いに動かすはずである。実際人々の心を一致させるためには、このような掟を正しく説明し、すべての人が命じられていることを良心的に守ること以上にすぐれた方法はない。つまりこうしてはじめて人々は心からの深い協調によって結ばれ、一致と平和を促進していくという希望をもつことができる。

 しかし、この掟の説明がどれほど必要であるかは、全世界を覆った大洪水のあと(創6、7章参照)、神がとくにつぎのようにおおせられたことによって分かる。「あなたたち〔人間〕の血、つまり、あなたたちの命の値を、私は必ず請求する。どの動物にもそれを請求し、人間の命の値を、人間からも、人間同志からも、私は必ず請求する…」。(創9・5)。また福音書によると、主が律法を説明されたとき、まずとり上げられたのはこの掟であった。マテオはこう伝えている。「昔の人は、殺すな……と教えられていた」(マ5・21)。そしてそのあとこれに関する説明がなされている。

 信者はすすんで注意深く、この掟に関する説明を聞かなければならない。さて、この掟の内容は各人の生命を保護することをめざしており、「殺すな」ということばは殺人を固く禁じている。このように神はご自分の怒りとその他の厳しい罰をもって、とくにだれも危害を加えられることのないようにされているのであるから、ひとりひとりが心から喜んでこの掟を受け入れなければならない。それ故、この掟に関する説明を喜んで聞くと同時に、この掟によって禁じられている悪をすすんで避けなければならない。

2 この掟が禁じていることと命じていること

 神は動物を食べることをお許しになっており(創9・3参照)、したがって当然それを殺すことも許されている。このことについて聖アウグスチヌスは、「われわれは『殺すな』というみことばを聞くとき、それは感覚をもたない木や、われわれと決して交わることのない非理性的な動物について言われているのではないと解釈する」(1)と言っている。

 キリストはこの掟の内容の説明において、この掟には二つのことが含まれていることをお教えになった(マ5・21~25参照)。そのひとつは殺してはならないという禁止事項であり、他のひとつは敵に対して心を同じくする友愛と聖愛をもち、すべての人々と平和を保ちまたあらゆる不都合を忍耐強く耐え忍ぶという(コロ3・12~15参照)命令事項である。

訳注
(1) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 1, cap. 20

3 動物を殺すことについて

 まず禁じられている殺傷について言う前に、この掟によって禁じられていない殺傷があることを教えなければならない。実際、動物を殺すことは禁じられていない。

4 人を殺すことが許される場合

 さらに、禁じられていないもうひとつの種類の殺傷がある。それは、死刑を課する権能をもつ裁判官によって命じられるもので、この権能により法の規定と判決をもとに犯罪人は罰され、潔白な人は保護される。裁判官はこの役務を正しく果すとき、殺人罪をおかすどころか、殺人を禁じる神の掟に忠実に従っているのである。この掟の目的は人々の生命と救いを保証することにあるが、犯罪人を合法的に処罰する裁判官もまた同じように刑罰をもって無諜と不正とをこらしめ、人々の生命を安全にするからである。そのためダヴィドはつぎのように言っている。「朝ごとに私は打ち破る、国の悪人どもを。主の町から悪をおこなう者共を亡ぼすために」(詩101・8)。

5 正しい戦争の場合

 同じ理由から、自分の強欲や残虐さにかられてではなく、ただ、国家のためのみを思って正しい戦争を行い、敵の命を奪う人も第五戒にもとる罪をおかすことにはならない。またとくに神の御命令によって人の命を奪う場合も殺人にはならない。一日に何千人もの人を殺したレヴィの子らは罪をおかしたのではない。この殺戮のあとモイゼはかれらに向かって、「あなたたちは今日、主にあなたたちの手をささげた」(出32・29ヴルガタ訳)と言っている。

6 偶発的な殺人について

 さらに意識的でも計画的でもなく、偶然に人を殺した人も第五戒にそむいたことにはならない。これについて第二法の書にはつぎのようにしるされている。「……だれかが、不注意から前もって相手に憎しみをいだかずに打ってしまった場合である。たとえば人が隣人といっしょに森へ木を切りに行ったとき、斧が一本の木を切り倒すためにふりあげられているのに、刃が握りから抜け飛んで、隣人を打った結果その人が死んだ場合云々」(19・4~5)。このような殺傷は故意にあるいは計画的になされたものではないので、決して罪にはならない。このことは聖アウグスチヌスのつぎのことばからも証明される。「もしわれわれが善を求めて合法的にした行為からわれわれの意に反して悪が生じた場合、その悪はわれわれの責任に帰せられるべきではない。」(2)

訳注
(2) S. Augustinus, epist. 154

7 間接的な殺人について

 しかし二つの理由から、それが罪になることがある。そのひとつは、たとえばある人が不正な事をすることによって人を殺した場合である(たとえば妊娠した女を足げにしたり殴ったりしたために流産した場合、たしかに胎児の死は望んでいなかったとしても、妊娠した女をちょうちゃくすることは許されないのであるから、罪は免れない)。他のひとつは、あらゆることに対する配慮を欠いたために、怠慢と不注意から、ある人を殺した場合である。

8 正当防衛のための殺人

 また自分の生命を守るために、あらゆる配慮をしたにもかかわらず相手を殺してしまった場合も、この掟にもとらないことは明らかである。右にあげたようなことは第五戒が禁じている殺人ではない。しかしそれ以外の殺人は、殺す人がだれであれ、また殺される人がだれであれ、殺人の方法がどのようなものであれ、すべて禁じられている。

9 個人の権威をもって人を殺すことは許されない

 殺人はすべての人に禁じられており、金持ちも権力者も、主人も両親も、いかなる人も例外ではない。なんらの差別も区別もなくすべての人に、人を殺すことは禁じられている。

10 だれも自分や他人の生命を左右することはできない

 つぎに殺される側について言うと、この掟はすべての人を含んでいる。この掟の効力によって保護されないほど身分の低い卑しい人はひとりもいない。

 また自殺することはだれにも許されていない。自分の望みどおりに自分に死をもたらすことができるほど、自分の生命に対して権能をもっている人はだれもいない。そのため掟は「人を殺すな」とは言わずに、ただ「殺すな」と言っているのである。

11 殺人の方法について

 つぎに、殺人がおこなわれる方法のいずれを見ても、だれも人を殺すことは許されていない。だれも手、刃物、石、棒、ひも、毒をもって生命を奪うことは許されないばかりか、勧告、加勢、援助あるいはその他いかなる手段をもっても人を殺すことは禁じられている。手で殺しさえしなければこの掟を守ることになると信じていたユダヤ人の大きな愚かさと盲目さがここにある。しかしキリストの説明によって、この掟が霊的なものであることつまり清い手だけでなく清いまじめな心をもつように命じていることを知っているキリスト者は、ユダヤ人たちが十分と考えていたことで決して満足することはできない。実際、福音書ではだれに対しても怒ってはならないと言われている。主はつぎのようにおおせられている。「しかし私は言う、兄弟に怒る人はみな審判を受け、兄弟に向かって『白痴』と言う人は衆議所に渡され、『気違い』と言う人はゲヘンナの火を受けるであろう」(マ5・22)。

12 怒りについて

 このみことばから、兄弟に向かって怒る人はたとえ怒りを内心に隠していても、咎めを免れないこと、その怒りをなんらかの形で爆発させた人は重い罪をおかすこと、兄弟を虐待したり侮辱することを恐れない人は、さらにいっそう重い罪をおかすことは明らかである。

 このことは、われわれがなんの理由もなしに怒る場合もそうである。しかし怒りでも、神と掟によって許される場合がある(詩4・5、エ4・26参照)。それは、われわれの指導のもとにありわれわれの従うべき人々が過ちをおかし、それを矯正するときである。キリスト者の怒りは肉の感覚からではなく、聖霊から来るものでなければならない。われわれは聖霊の聖所であるべきで(コ①6・19参照)、そこにイエズス・キリストがお住まいになるのである(エ3・17参照)。