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ローマ公教要理 十戒の部 第六章 第五戒 13-25 | 殺人罪のもたらす害悪、敵に対する愛・ゆるし、憎悪は多くの罪を生む

 十戒の部 目次

第六章 第五戒 殺すな (出20・13、第5・17参照)

13 第五戒を完全に守るためには

 さらに、主はこの掟を完全に守るために必要な多くのことをお教えになった。それはつぎのとおりである。「悪人にさからってはならない。人があなたの右の頬を打ったら、ほかの頬も向けよ。人があなたを訴えて上着を取ろうとしたら、マントもやるがよい。人があなたを一千歩〔歩かせるため〕に徴用したら、かれといっしょに二千歩を歩け」(マ5・39~41)。

 これまで説明したことから、人々がこの掟によって禁じられている事柄に対しどれほど強い傾きをもっているか、また手を使わなくとも少なくとも心で殺人罪をおかす人がどれほど多いかが分かる。

14 どれほど神は殺人罪を憎まれるか

 聖書にはこのような危険な病気に対する薬が指示されており、それを信者たちに教えることは司牧者の義務である。さてもっとも効き目のある薬は、殺人の罪がどれほど重い罪であるかを信者たちが理解することである。このことは、聖書の多くの重要な証言によって明らかにすることができる(創4・10~12、出21・12~14、レ24・21参照)。聖書によると、神は殺人罪をひどく憎み、人を殺した動物をご自分で罰することをお約束になり(創9・5参照)、また人を傷つけた動物は殺すように命じておられる(出21・28参照)。また神は、人間が血を恐れるようにされたが、これはあらゆる手段を用いて、極悪の殺人罪からわれわれの心と手を遠ざけるためである。

15 殺人罪のもたらす害悪

 殺人者は人類だけでなく自然にとっても、もっとも残忍な敵である。神はご自分がお創りになったものはすべて人間のためであるとおおせられたが(創1・26参照)、殺人者はその人間を殺すことによって、自分がかかわり合う範囲内で、神のすべての御業を破壊する。さらに創世の書によると、神は人間をご自分にかたどりご自分に似せてお創りになり、それを殺すことを禁じておられ(創9・6参照)、したがって神の似姿を世界から消し去るものは神をひどく侮辱し、いわば暴力をふるうようなものである。ダヴィドは霊的な思いをもってこのことを黙想し、この恐しい残忍な殺人者について、「かれらの足は血を流すに早い」(詩14・3ヴルガタ訳)と言っている。ダヴィドは単に、「かれらは殺す」とは言わず、「かれらは血を流す」と言っている。それは、この憎むべき罪のひどさと、その罪をおかす人々の恐るべき残忍性を示すためである。とくに、殺人者が一種の悪魔的な暴力によってどれほどこの悪にかり立てられるかを示そうとして、「かれらの足は血を流すに早い」と言っているのである。

16 第五戒によって命じられていること

 さて、この掟において実行すべきこととして主キリストがお命じになっていることは、すべての人々と平和を保つことである(ロ12・18参照)。主はこの掟を説明して、つぎのようにおおせられている。「あなたが祭壇に供え物をささげようとするとき、兄弟が何かあなたに対して含むところがあるのを思い出したら、供え物を、そこ、祭壇の前において、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って、供え物をささげよ」(マ5・23~24)。このあとも同じことをおおせられている。

 司牧者はこのみことばの説明にあたって、われわれはすべての人々を例外なく、愛をもって抱擁しなければならないことを教えるべきである。そしてこの掟の説明において、そこにはっきりと含まれている隣人愛の徳を実行するよう、全力をあげて信者たちにすすめなければならない。なぜなら、「兄弟を憎むものは人殺しである」(ヨ①3・15)と言われているが、この掟では憎悪を禁じており、したがって愛と聖愛を命じていることはたしかである。

17 愛の行為

 この掟は愛と聖愛とを命じており、したがってその愛に当然伴うはずのあらゆる義務および実行も命じている。聖パウロによると、「愛は忍耐強い」(コ①13・7)、したがって第五戒では忍耐も命じられている。そして主は、この忍耐によってわれわれは自分の魂を救うであろう、とおおせられた(ル21・19参照)。

 つぎに、「愛は慈悲に富んでおり」(コ①13・4)、慈悲は愛の友であり同伴者である。そして慈愛と慈悲の徳は多くのことを含んでいる。その働きはとくに、貧しい人々に必要なものを与え、飢えている人々に食べ物を、渇いている人々に飲み物を与え、裸の人々に着物を着せること、つまりだれかがわれわれの助けを必要としていればいるほど、寛大にそれを与えることにある。

18 敵に対する愛の行為

 このような慈愛と慈悲の行為は、それ自体すでにすぐれたものであるが、それが敵に対してなされる場合、いっそうすぐれている。主は、「あなたたちは敵を愛し、迫害する人のために祈れ」(マ5・44)とおおせられている。また聖パウロは、「あなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。こうしてあなたは、かれの頭の上に燃える炭火を積む。悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ロ12・20~21)。

 また愛の掟を慈愛という点から見た場合、この掟によって、温良、優しさおよびこのような種類の諸徳の実行が命じられていることが分かる。

19 敵をゆるすこと

 しかしこれらの行為のうち、もっともすぐれまたもっとも愛に満ちた行為で、特別に実行すべきことは、受けた侮辱を心からゆるし堪忍することである。すでにのべたように、聖書はしばしば、このことを実行するようにすすめ、はげましている。聖書は、真心からゆるす人を幸せな人と呼ぶだけでなく、このような人は神から自分の罪のゆるしを得るが、他人をゆるさない人あるいはゆるすことを拒む人には、本人の罪もゆるされないと言明している。

 しかし復讐心はいわば本来人間の中にあるのであるから、キリスト者は受けた侮辱をゆるし、それを忘れなければならないことをかれらに教えるだけでなく、それを深く納得させるよう最大の努力を払うべきである。これについては、聖なる著者たちが多くの著作をあらわしているのであるから、頑固にまた冷酷に復讐しようとする人々のかたくなさを打ち砕くために、それらを用いるべきである。またこれらの教父たちが、そのためにもっとも強力でまたもっとも適したものとして熱心に用いた論証を学んでおくべきである。

20 ヨブの模範

 とくに、これからのべる三つの点を説明すべきである。まず、侮辱されたと思っている人に対して、かれが復響しようと考えているその人は、かれが受けた損害あるいは侮辱のおもな原因ではないことを心から納得させることである。あのすばらしいヨブはそのようにしたのであった。かれはサベア人やカルデア人、サタンからひどくいためつけられたとき、かれらのことは全く考えず、正しい人信仰の人として、正しい心と信仰をもって、「主は与え、また奪われた」(ヨブ1・21)と言った。信者たちはこのような忍耐強い人々のことばと模範を見ることによって、われわれがこの世において受けるものはすべて、すべての正義と慈悲の源であり与え主である神から来ることを確信するであろう。

21 本当の自分の相手はだれか

 また神の慈愛は無限であって、われわれを敵として罰されることはなく、むしろ子としてこらしめ、正されるのである。実際、よく考えてみると、このような事柄において人間は神の使者あるいはいわば助手にすぎないことが分かる。だれかがある人を憎み悪を望むことがあるとしても、神のお許しなしには決してその人に害を加えることはできない。だからこそヨゼフは兄弟たちからひどい仕打ちを受けてもそれを耐え忍び(創45・5~8参照)、またダヴィドはシメイの侮辱を平静な心で受け止めたのであった(サ②16・5~14参照)。このことについて聖クリゾストムスはつぎのような論証を厳密にそして巧みに展開している。つまりだれも自分以外のものから傷つけられることはない。なぜなら自分は侮辱されたと思うもの、でも、物事を公正に判断するならば、自分はほかの人からなんらの侮辱も損失も受けていないことを知るに至るからである。実際かれらを傷つけたと思われることは外部において起こっているのであり、かれらは憎悪、欲望、ねたみをもって心を汚し、けがすことによって自分で自分を傷つけているのである。

22 侮辱をゆるすことによって与えられる恵み

 第二の点は、神に対する聖なる信心から喜んで侮辱をゆるす人には、主要な二つの恵みが与えられるということである。その第一は、他人の負債をゆるす人にはかれ自身の罪もゆるされると神が約束されたことである(マ6・14~15、18・33~35参照)。この約束から見て、人をゆるすことがどれほど神によみせられるものであるかが容易に分かる。第二の恵みは、ある種の尊厳さと完全さが与えられることである。つまりわれわれは侮辱をゆるすことによって、「悪人の上にも善人の上にも陽をのぼらせ、義人にも不義の人にも雨をお降らせになる」(マ5・45)神にいくぶん似たものとされるのである。

23 敵に対する憎悪からくる損失

 第三に説明すべき点は、人は自分に加えられた侮辱をゆるすことを拒むことによって損失をまねくということである。したがって司牧者は、敵をゆるす決心のつかない人に対しては、憎悪は重い罪であるだけでなく、いっそう罪の重さを増すものであることを示すべきである。実際、そのような気持を心にもっているものは、自分の敵の血に渇いており、復讐しようとして日夜たえず悪い考えをめぐらし、殺人あるいはなんらかの極悪なことをもくろむことを決してやめない。こうして受けた侮辱の全部あるいはそのいくらかをゆるすことは、不可能になるかあるいはきわめて困難になるのである。そのため、憎悪は矢のささったままの傷にたとえられる。

24 憎悪は多くの罪を生む

 さらにこの憎悪の罪には、いわば鎖のようにして、多くの悪と罪が結びついている。そのため聖ヨハネは、つぎのように言っている。「兄弟を憎む人は闇の中にいて、闇の中を歩み、闇に目をくらまされて、自分がどこに行くのかも知らない」(ヨ①2・11)。そのため憎悪をもっている人はしばしば罪をおかす。実際、憎んでいる相手のことばあるいは行いを、どうして是認することができようか。そこから思慮を欠いた不正な判断、怒り、ねたみ、悪口、その他似たような罪が出て来る。このことは普通、血縁や友情によって結ばれている人々にさえ起こる。このように、しばしばひとつの罪から多くの罪が生まれて来る。

 また憎悪が悪魔からのものであると言われるのも(ヨ①3・10参照)理由のないことではない。悪魔ははじめから人殺しだったからである(ヨ8・44参照)。そのため、神の子にしてわれわれの主であるイエズス・キリストは、ファリザイ人たちがかれを殺そうとしたとき、かれらは悪魔を父として生まれたのだとおおせられている(ヨ8・44参照)。

25 憎悪の罪に対する薬

 聖書には、この罪が憎むべきものであることを示すこれらの説明のほかに、この罪に対するきわめて有効な薬も指示されている。

 その薬の中で第一のそして最良のものは救い主の模範で、われわれはそれを模倣するように努めなければならない。いかなる罪の疑いもありえなかったのに(イ53・9、ヨ8・46参照)むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、ついに十字架につけられたかれは、つぎのような愛のこもったみことばをおおせられた。「父よ、かれらをおゆるしください。かれらは何をしているのか知らないからです」(ル23・34)。実際、使徒によると、イエズスの血はアベルの血よりも雄弁に語る注ぎの血であったのである(ヘ12・24参照)。

 もうひとつの薬は集会の書に示されており、それは死と審判の日のことを思い出すことである。「あなたはどんな行いをする時も、自分の最期を思え、そうすれば罪をおかさないだろう」(7・36)。このことばはつぎのように言っているようにみえる。あなたはしばしばくりかえし、自分はまもなく死んでいくのだと考えよ。そのような時にあたって、神の深いあわれみを乞い求めることはもっとも望ましくまた必要なことであり、したがってあなたは今もいつも神のあわれみによりすがって生きるようになるはずである。こうして、復響しようという恐るべき欲望はあなたから取り除かれるであろう。そして、神のあわれみを願い求めるための最良かつもっとも適切な薬は、侮辱を忘れること、あなたやあなたに近い人々でことばや行いをもって侮辱した人々を愛することであることを知るであろう。