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ローマ公教要理 十戒の部 第八章 第七戒 1-14 | 盗みとは何か、窃盗・掠奪について、高利貸しについて

 十戒の部 目次

第八章 第七戒 盗むな(出20・15、第5・19参照)

1 第七戒の内容

 この掟の内容および価値について信者たちに説明することは教会の古くからの習慣であり、そのことは、自分も同じ欠点に固まっていながらその欠点をもっている他人を避けようとする人々を咎めた、聖パウロのつぎのことばに示されている。かれは、「あなたは他人を教えて自分を教えないのか、盗むなと説教して自分は盗むのか」(ロ2・21)と言っている。この教えのおかげで、当時ひんぱんであったこの罪を改めさせたばかりでなく、争いや訴訟を終らせ、盗みからくるその他の悪の原因を取り除くことができたのであった。不幸にして現代でも、この罪と、それによる害悪および不幸があるのであるから、司牧者は、聖なる教父たちやキリスト教的教えの師たちの模範にならってこの点を強調し、たえず入念にこの掟の内容と意味を説明しなければならない。

 まず第一に配慮すべきことは、人類に対する神の愛を明示することである。神は、「殺すな」、「姦淫するな」という二つの禁令をいわばとりでとして、われわれの生命、体、評判、評価をお守りになるだけでなく、さらに、「盗むな」という掟を一種の外の監視人として、所有物や蓄えを保証し保護されるのである。

2 第七戒の意味について

 実際、これらのみことばの意味するところはほかでもなく、すでに他の掟の説明にあたってのべたこと、つまり神はご自分の保護のもとにおかれているわれわれの善がだれかに奪われたり損われたりすることを禁じておられるということである。さて、神の掟によってもたらされる恵みが大きければ大きいほど、その恵みの与え主である神に対するわれわれの感謝もいっそう深くなければならない。そしてこの感謝の心をもち、それを表わすための最良の方法も示されている。それは神の掟をただ喜んで耳で聞くだけでなく、実際にそれを守ることである。したがってこの掟を遵守するよう信者たちをはげまし燃え立たせなければならない。

 この掟は、これまでの掟と同じく二つに分かれている。そのひとつは盗みを禁じるもので、これははっきりとのべられており、他のひとつは隣人に対して慈悲深く寛大であるように命じており、これは前者の中に含蓄的にのべられている。ではまず、「盗むな」という第一点を説明することにしよう。

3 盗みとは何か

 まず、盗みという語は、ひそかに、所有者の意に反してある物を奪うことだけでなく、他人のものを、その所有者が意識し反対しているにもかかわらず保有することをも示すことに注愚しなければならない。さもないと、盗みをお禁じになったお方は、暴力や傷害を伴う掠奪を是認されるということになりかねない。しかし聖パウロは、「掠奪する人は神の国を嗣がない」(コ①6・10)と言っている。さらにかれは、そのような人との付き合いや交際をいっさい断つように命じている(コ①5・11参照)。

4 盗みという語が用いられているわけ

 掠奪の罪は、ただ他人から物を奪うだけでなく他人に暴力をふるい暴行を加えるので、盗みよりも罪は重い。しかしこの掟において神が掠奪よりも軽い、盗みということばを用いておられることに驚いてはならない。そのわけは、掠奪の罪は蛮勇と力をもったものだけが犯すのに対して、盗みの罪はより多くの人が、しかもより多くのことにわたって犯すからである。また小さい罪が禁じられているのであれば、より大きい罪が禁じられていることは、だれにとっても明らかだからである。

5 盗みの種類

 他人の物の不正な所有または使用は、正当な所有者が知らない間にかれの意に反して奪われた物に従って、いろいろなことばで示される。個人の物をひそかに奪うならば「窃盗」と言われ、公共の物を取るならば「横領」と呼ばれ、自由人あるいは他人の奴隷を自分の奴隷にする場合、それは「誘拐」である。そして聖なる物を奪うならば「瀆聖」と呼ばれ、これは第七戒にもとる罪の中でもっとも罪深くまたもっとも憎むべき罪である。これは、聖なる事柄のため、教会の役務者や貧しい人々のために必需品として畏敬をもって予定していたものを、個人の欲望を満たすため、咎むべき快楽のために使用するからである。

6 盗もうという望みも禁じられている

 また第七戎は盗みそのものすなわち外的行為だけでなく、盗もうという考えや望みまでも禁じている。なぜならこの掟は精神的なものであって、考えや思いにも及ぶからである。主はマテオ福音書の中で、「悪い考え、人殺し、姦淫、淫行、盗み……などは心から出る」(15・19)とおおせられている。

7 盗みの罪の重さ

 つぎに、盗みがどれほど重い罪であるかは、自然そのものの光および理性がそれを教えている。盗みは各自にそれぞれのものを帰する正義に反する。善の配布と分配は、はじめから万民法によって定められ、また神定法や人定法によって確認され批准されているはずのものである。それは各自にそれぞれ帰するものを所有させるもので、これなしには人間社会はありえない。聖パウロは、「……泥棒も、貪欲な人も、酒飲みも、ざんげんする人も、掠奪する人も神の国を嗣がない」(コ①6・10)と言っている。

 盗みの罪の重さおよび恐ろしさは、この罪がもたらす多くの結果によって知られる。つまり多くのことについて多くの無諜で無思慮な判断を生み、憎悪をもたらし、敵対関係をつくり出し、時としては罪のない人々に対してもっとも悲しむべき断罪を宣告させることもある。

8 盗んだものは返すべきこと

 神はさらにすべての人に対して、他人のものを何か盗んだならば必ずそれを弁償するようにお命じになっているが、これについてはいまさら言うまでもない。聖アウグスチヌスは、「盗んだものを返さないかぎり、罪はゆるされない」(1)と言っている。このような返済は、他人のもので裕福になることに慣れている人にはどれほど困難なことであろうか。それについては各自がほかの人の生活態度や自分の考えから判断できるであろう。このことは預言者ハバククの、つぎのことばからも分かる。「わざわいなものよ、自分のものでないものを集め、厚い泥を積みあげることは」(ハバ2・6参照)。かれは他人のものを盗むことを厚い泥と呼んでいる。それはそこから抜け出し解放されることは困難だからである。

 ところで、盗みの種類はいろいろで、それを全部数えあげることは難しい。しかしその中から窃盗と掠奪の二つについてのべるだけで十分で、その他の罪はその二つに関係づけられる。したがって司牧者は、信者たちがこれらの罪をいみ嫌い避けるように、あらゆる努力と配慮をしなければならない。ではつぎに、その第一の罪についてのべることにしよう。

訳注
(1) S. Augustinus, epist. 54

9 窃盗について

 盗品を買う人、あるいは見つけた物やなんらかの仕方で奪い取るか取りあげた物を保有している人も盗人である。聖アウグスチヌスは、「拾ってそれを返さないのは奪い取ることである」(2)と言っている。どうしても所有者が分からない場合は、貧しい人々のために役立てるべきである。見つけた物を返そうとしないのは、できれば何でもかすめ取ろうとしている明らかな証拠である。

 また物の売買にあたって相手をだましたり偽ったりする人も、同様に盗みの罪をおかすのである。このような欺瞞を主は必ず罰される。中でも、にせものあるいは腐った物を本物または上等のものとして売ったり、また重さ、長さ、数、はかりで買い手をごまかしたりする人々の罪はいっそう邪悪で重い。第二法の書には、「あなたの袋の中に大きいのと、小さいのと、それぞれ違うはかりをもつな」(25・13)とあり、またレヴィの書には、「裁判の時に、ものさし、はかり、ますのことで不正を行うな。正しいはかり、正しい目方、正しいエファ、正しいピンを使え」(19・35~36)とある。さらにべつの書では、「二種の重りは神に嫌われる。ごまかしのはかりは良くないことだ」(格20・23)と言われている。

 さらに、正当な、なすべき仕事をしていないのに、報酬を全額要求する労働者や職人もまた明らかに盗みの罪をおかしている。また不忠実な奉公人や番人も盗人である。このような盗人はほかの盗人以上に罪が重い。なぜならほかの盗人は鍵によって妨げられるが、盗人の奉公人には家にあるものを何も封印したり隠したりできないからである。

 また、うわべだけの偽りのことばを使ったり、あるいはにせの乞食になって金をまき上げることも盗みの罪になりうる。かれらの盗みはうそを伴っているだけにいっそう重い罪となる。

 なお、個人的あるいは公的な任務を託されたにもかかわらず、そのための努力を全くしないか、あるいはわずかしかせずにその任務を怠り、報酬や俸給だけは受け取る人もまた盗人の中に数えるべきである。

 そのほかにも多くの盗みがあり、それらはどれもどうにかして金もうけをしようという貪欲から来ているのであるが、すでにのべたように、それをくわしく見ることは長すぎまた困難である。

訳注
(1) S. Augustinus, lib. 20, Hom. 9

10 掠奪について

 つぎに第二の盗みの種類である掠奪についてのべよう。しかしその前に、司牧者は信者たちに、聖パウロのつぎのことばを思い起こさせるべきである。「富を求める人人は、誘いと悪魔のわなに……陥る」(ティ①6・9参照)。またつぎの掟も決してなおざりにしてはならない。「他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え」(マ7・12)。そしてつねにつぎのことばについて考えるべきである。「あなたがしてもらいたくないことは、他人にもするな」(卜4・15)。

 掠奪は多くのことを含んでいる。たとえば雇い人に当然の賃金を払わない人は掠奪者である。聖ヤコボはかれらに悔悛をすすめ、「富む人々よ、あなたたちに来ようとする災いのために泣き叫べ」(ヤ5・1)と言い、その悔い改めの理由として、「畑を刈り入れた働き人に、あなたたちが払わなかった賃金は叫び、刈り入れた人の叫びは万軍の主の御耳にとどいた」(ヤ5・4)と言っている。この種類の掠奪はレヴィの書(19・15参照)、第二法の書(24・14参照)、マラキア書(3・5参照)、トビア書(4・14参照)でも厳しく咎められている。

 また教会のかしらや為政者たちに払うべき租税、年貢、十分の一税、その他そのようなものを払わない人、またはそれを浪費したり私用に使ったりする人も掠奪の罪をおかすのである。

11 高利貸しについて

 貧しい人々からかすめ取り、高利をとってかれらを滅ぼしてしまう残酷無情な高利貸しも掠奪者である。利子とは、貸し与えた資本あるいは元金外の、金あるいは金で買ったり金で評価できるほかのもののことである。エゼキエル書では、「利子をつけて貸さず、高利をとらないように」(18・8)としるされている。また主はルカ福音書で、「返しを待たずに貸せ」(6・35)とおおせられている。この罪はつねに異教徒の間でさえきわめて重くまた憎むべき罪とされていた。高利貸しは人殺しだという諺さえあるほどである。実際、利子をつけて貸すことは二度売ることであり、またはない物を売ることである。

12 収賄や借金の不払い

 同様に、買収され、そのために裁判を左右したり、また金銭や贈物に目をくらまされて、弱い人々や貧しい人々に有利な訴訟を敗北させるような裁判官も掠奪の罪をおかす。

 また債権者をだましたり借金の返済を拒む人、あるいは自分または他人のことばを信用させて商品を買っておきながら、支払いの時期が来ても約束を果たさない人も同じ掠奪の罪に問われる。かれらの罪は、このような人々の詐欺や欺瞞を口実に、商売人がすべてのものをより高く売り一般の人に害を与えるだけに、いっそう重いのである。「悪人は借りても返さない」(詩37・21)というダヴィドのことばはまさにかれらにあてはまる。

13 行きすぎた取り立てについて

 さて、支払い不可能な人々から貸したものを厳しく取り立て、神の禁令にそむいてこれらの人々の肉体生活に必要なものまで抵当にして取りあげる金持ちについては、今さら何を言おうか。主はつぎのようにおおせられている。「あなたが、もし近いもののマントを質にとったなら、日が暮れるとそれを返せ。事実、それはその身を覆う唯一のもの、その肌着になるもので、それがなければ何で寝るのか。かれがもし私に叫びをあげれば、私は聞き入れよう。私は憐れみのあるものだからである」(出22・25~26)。したがってこのような債権者の取り立ての苛酷さを、強欲つまり掠奪と呼んだとしても、それは正しいのである。

14 買い占めや売り惜しみについて

 聖なる教父たちは、穀物の不足にあたって買い占める人々、また市価をつりあげ高くする人々も掠奪者の中に加えている。これは食べ物および生活必需品すべてについて言えることである。サロモンは、「小麦を買い占める人は民に呪われる」(格11・26)と言っている。司牧者は臆することなく、かれらの罪を咎め、このような罪に課される罰についてくわしく説明しなければならない。

 以上が第七戒によって禁じられていることである。つぎに、命じられていることの説明に移ることにしよう。その第一は、弁償または返済である。「盗んだものを返さないかぎり罪はゆるされない」と言われているからである。