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ローマ公教要理 十戒の部 第八章 第七戒 15-25 | 施しをすすめるみことば、よりよい暮らしをするために盗む人に対して、金持ちから盗むこと

 十戒の部 目次

第八章 第七戒 盗むな(出20・15、第5・19参照)

15 盗人にもいろいろある

 盗まれた人に盗んだものを返すのは、盗んだ人だけでなく、盗みに加わった人も全部この掟によって返済を義務づけられているのであるから、弁償や返済を義務づけられているのはどのような人かをはっきりと説明すべきである。

 それにはいろいろな種類の人が含まれる。その第一は盗みを命じた人々である。このような人は盗みの張本人および共犯者であるだけでなく、盗人の中でもっとも罪が重い。

 第二にあげられる人々は、盗もうという意志では前者と同じであるがその行為において異なっている。しかしかれらの罪の重さは前者と同じである。かれらは命令することはできないので、盗みをすすめ、そそのかす。

 第三に、盗人と共謀する人々がある。

 第四に、盗みに加担しそのもうけにもあずかる人々がいる。もっとも、かれらが改心しない場合、かれらを永遠の苦痛に陥れるものをもうけと言えるとしたら、であるが。ダヴィドはかれらについて、「おまえは盗人を見ればそれに同意する」(詩50・18)と言っている。

 第五に、盗みを禁じることができたのに、それを妨げも反対もせず、するままにしまた承認する人々がいる。

 第六に、盗みがあったこと、またどこであったかもたしかに知っているのに、そのことを告げず、そればかりか自分が知っていることを隠そうとする人々がいる。

 さいごに、盗人を援助する人、かばう人、保護する人、かれらに隠れ場所または住居を提供する人々がある。これらすべての人はものを盗まれた人々に対して償いをすべきで、この当然の義務を果たすよう強く勧めなければならない。

 盗みを承認する人々や賛美する人々は盗みの罪を決して免れることはできない。また父や夫の金をくすねる子供や妻も同様である。

16 困窮者に対する義務

 さらにこの掟には、貧しい人や困っている人をあわれみ、われわれの蓄えと親切をもってかれらを窮乏や貧困から救わなければならないという教えが含まれている。この問題はしばしばまたくわしく取り扱わなければならないのであるが、司牧者はそのための説明を、施しについてすばらしい著作を残した聖キプリアヌス、聖ヨハネ・クリゾストムス、ナジアンズの聖グレゴリウスおよびその他の教父たちから借用することによって、その務めを十分に果たすことができるであろう。司牧者は他人の慈善によって生活している人々を援助しようという熱意と活動へと信者たちをかり立てなければならない。またとくに、あの最後の審判の日に、神は、施しの義務を怠り無視したりした人々を憎み、永遠の火に落とされること(マ25・41参照)、そして困窮者に対して寛大であった人々を大いにほめ、天の祖国にお導きになることを思い起こさせることによって(マ25・34参照)困窮者に寛大に施し、つまりかれらに寛大にものを提供し奉仕することがどれほど必要であるかを教えるべきである。つぎの二つのことばは主キリストの口から発せられたものである。「私の父に祝せられたものよ、来て、……あなたたちのために準備されていた国を受けよ」(マ25・34)。「呪われたものよ、私を離れて………永遠の火に入れ」(マ25・41)。

17 施しをすすめるみことば

 また司牧者は、信者たちを納得させるため、つぎのようなことばを用いるべきである。「与えよ、そうすればあなたたちも与えられる」(ル6・38)。

 司牧者はさらに神のお約束を強調すべきで、このお約束以上に豊かですぐれたものは考えられないのである。「私のために……家や……田畑をすてる人は、今から……田畑の百倍を受け……またのちの世では永遠の命を受ける」(マル10・29~30)。

 また、「不正の富で友人をつくれ、そうしておけば金がなくなったとき、その友人があなたたちを永遠のすみかに迎えてくれるだろう」(ル16・9)という主のみことばをつけ加えるべきである。

 さらにこの義務の部分について説明し、貧しい人々に生活必需品を与えることのできない人々には、「返しを待たずに貸せ」(ル6・35)という主キリストのみことばに従って、少なくとも貧しい人に貸し与えるようにさせるべきである。このような行為をたたえてダヴィドは、「善い人は憐れんで貸す」(詩112・5)と言っている。

18 労働をもって困窮者を救うこと

 もし生活のために他人の慈善を必要とする人々を助けるほどの蓄えをもたない場合、安逸を避けるためにも、労働や奉仕あるいは手仕事をもって貧しい人々を困窮から救うというのがキリスト教的敬虔である。聖パウロはテサロニケ人への書簡の中で、自分の例をあげてすべての人々にこのことを実行するようにすすめ、こう言っている。「私たちに倣ることの必要については、あなたたち自身知っている」(テ②3・7)。また同じテサロニケ人にあててこう書いている。「私たちが先に命じたように、落ちついてそれぞれの仕事につき、手ずから働くように努めよ」(テ①4・11)。またエフェゾ人にあてて、「盗人はもう盗むな。むしろ貧しい人々に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け」(エ4・28)と書いている。

19 他人の善意を大切にすること

 またわれわれは他人にとって重荷になったり、やっかいものになったりしないように、質素に生き、他人のものを大切にするようにしなければならない。このような節制はすべての使徒たち、なかでも聖パウロにおいてはっきりと現われている。かれはテサロニケ人にこう書き送っている。「兄弟たちよ、あなたたちは私たちの働きと苦労とを知っている。だれの負担にもなるまいとして、私たちは夜昼働いて神の福音をのべ伝えた」(テ①2・9)。またかれは別のところでこう書いている。「私はだれの負担にもならないようにと、夜も昼も働き、骨折って苦労した」(テ②3・8)。

20 第七戒を守らせるために

 司牧者は、信者たちがこのような憎むべきあらゆる種類の盗みの罪をいみ嫌うようにするために預言者の助けをかり、またその他の聖書の箇所を用いて窃盗と掠奪に対する嫌悪とこれらの罪をおかす人々に神がお与えになる恐るべき罰を示さなければならない。預言者アモスはこう叫んでいる。「貧しい者を踏みにじり、地のしいたげられる者を滅ぼすものたちよ、これを聞け。あなたたちはこう言っている。『私たちが穀物を売れるように、新月がいつすぎるだろう。私たちが小麦を出せるように、安息日がいつ終るだろう。そうなったら、くず麦までも売ろう。私たちはそのために、エファを小さくし、シェケルをふやし、にせの量りを使おう』」(アモ8・4~5C)。このようなことばは、イエレミア書(5・21~29参照)、格言の書(22・16・22参照)、集会の書(10・7~9、31・5、35・11~24参照)などに多く見られる。

 また現代が苦しんでいる諸悪もその大部分がこのような罪に由来することも疑いないことである。そこで司牧者は、キリスト者たちが、第七戒の第二の内容として命じられている、貧しい人々や困っている人々に対する寛大さと慈悲の務めを果たすことができるよう、現世および来世において神が与えると約束された多くのすぐれた報酬を示すべきである。

21 盗みの言い訳をする人々に対して

 盗みの言い訳をしようとする人々がいるが、しかし神は決してかれらの罪の言い訳をお聞きにならないことを知らせるべきである。このような申し開きによって罪は軽くなるどころか、かえってひじょうに重くなる。であるから、自分たちが他人のものを取り上げるのは欲望や貪欲からではなく、家名や先祖の威厳を保つために他人のもので補わないかぎり名声と尊厳を落としてしまうという口実をもち出し、これで自分たちの罪は軽減されると考える貴族たちのぜいたくを許すことはできない。この有害な誤りからかれらを引き離すべきであり、と同時に先祖の財産、権力、栄光を保持し拡大していくための唯一の方法は、神の御旨を守りその掟に従うことにあることを教えるべきである。神の御旨と掟を無視するならば、どれほど確固とした基礎をもちまた組織された権力も覆えされ、王たちは王座から落ち最高の栄誉を失い、かれらのあとには時として、かれらが極度に嫌っていた身分の卑しい人たちが神によって立てられるのである。神がかれらに対してどれほどお怒りになるかは信じられないほどであり、預言者イザヤはこのことを証明して、つぎのように神ご自身に語らせている。「そのかしらたちは、反逆者、盗賊の共犯。かれらは賄賂を好み、報酬をねだり……そのため、主は叫ばれる、万軍のヤーヴェ、イスラエルのつわものが。『ああ、私は仇に向かって恨みを報いよう、私の敵に向かって仇をとろう。私はあなたの上に手をのべ、あなたのかすを全く清めよう……』」(イ1・23~25)。

22 よりよい暮らしをするために盗む人に対して

 また自分たちが他人のものに手をつけるのは名誉や栄光を保持するためではなく、生活と暮らしをより容易にまたより優雅にするためであるという人々もいる。かれらに対してはこれを反駁し、生活の快適さを神の御旨や栄光に先行させようとするかれらのことばや行いがどれほど不敬虔なものであるか、それを教えなければならない。われわれは神の掟をないがしろにすることによって、神の御旨と栄光をひどく傷つけるのである。もともと大きな害をもたらす盗みが、一体どのような利益をもたらすというのであろうか。集会の書は「盗人には恥辱と後悔がある」(5・17 ヴルガタ訳)と言っている。しかしたとえそのような害がなかったとしても、盗人は神の御名を辱しめ、神のいとも聖なる御旨にもとり、救いをもたらす神の掟を無視している。そして盗みはあらゆる誤り、あらゆる罪、あらゆる不敬虔の源泉である。

23 金持ちから盗むこと

 盗まれたからといってなんの損害も受けずまた感じもしない金持ちや資産家たちからものを取ることは決して罪ではない、と言う人たちがいるが、このような考え方についてはどう判断すべきであろうか。このような言い訳は全く取るに足らないものであり有害なものである。

 またある人は、盗みが習慣になり、容易にはその考えや行為に抵抗できず、これは盗みの理由になるとしている。かれは、「盗人はもう盗むな」(エ4・28)という聖パウロのことばに従うべきで、さもないと、かれが望むと望まぬにかかわらず、永遠の苦しみにも慣れなければならないであろう。

24 罪の機会は罪をおかす口実にはならない

 また機会があったので盗んでしまったと言う人々も多くいる。実際、「機会が泥棒をつくる」とは言い古されたことわざである。しかし、よこしまな欲望には抵抗すべきことを思い起こさせ、このような考え方から抜け出させなければならない。なぜならもし欲望が示唆することをすぐに実行したとしたら、罪や破廉恥な行為の方法、限界にはきりがないであろう。したがって、このような言い方はもっとも恥ずべき言い訳であり、それはどちらかというと、不節制と不正の最大の告白である。

 他方、自分には罪の機会は全くないので罪をおかすことはないと言う人は、機会さえあればいつでも罪をおかすと告白しているのと同じである。

 さらに、自分は他人から受けた損害の弁償として盗むのだと言う人がいる。かれらに対する答えとして、まず、だれも復讐することは許されないこと、だれも自分のことについては裁判官ではありえないこと、したがって自分に対して不正を働いた他人を罰することはなおさら許されないことを教えなければならない。

25 負債を返すための盗み

 さいごに、ある人々は自分は負債を背負い込み、盗み以外の方法では払えないので、自分の罪には十分な理由があり、咎められるべきではないと考えている。かれらに対しては、われわれが主祷文の中で「私たちの負い目をゆるしてください」(マ6・12)と言って毎日思い出している負債以上に人類にとって重い負債はないこと、したがって人間に対する負債を返すために神に対する負債つまり罪を増すことは愚の骨頂であること、地獄の永遠の苦しみを受けるよりも牢獄に入れられた方がはるかによいこと、神の審判によって断罪されることは、人間の裁きによって断罪されるよりもずっと厳しいこと、さいごに、必要なものをお与えになる神の御助けと御慈悲によりすがるべきことを教えなければならない。

 その他いろいろの口実があるが、賢明で自分の務めに熱心な司牧者は容易にそれらに答えることができるであろう。そしていつか、「善業に熱心な民」(ティト2・14)をもつようになるであろう。