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ローマ公教要理 十戒の部 第三章 第二戒 16-30 | むやみに誓ってはならない、聖書に対する尊敬

 十戒の部 目次

第三章 第二戒 あなたの神である主の名をいつわりのためによぶな(出20・7、第5・11参照)

16 誓いの源について

 誓いそのものについて考察し、誓いの源および目的を注意深く見るならば、誓いがなぜ称賛すべきものであるか、その理由が明らかになる。誓いは信仰から来るもので、信仰によって人々は神がすべての真理の源であり、欺かれることも欺くこともおできにならないこと、神の御前にはすべてがあらわで明らかであること(ヘ4・13参照)、また神は感嘆すべき御摂理をもって人間のすべての事柄について配慮し世界を支配しておられることを信じているのである(マ6・26、10・28~31参照)。そして人々はこのような信仰に満たされて神を真理の証人として立てるのであるから、この証人を信用しないのは不敬虔でゆるすことはできない。

17 誓いの目的について

 誓いの目的について言うと、誓いはとくに人間の正しさや潔白を証明し、訴訟や争いを終らせることをめざしている。使徒はこのことをヘブライ人への書簡の中でのべている(6・16参照)。

18 キリストによる誓いの禁止

 ところで、マテオ福音書にあるキリストのみことばと、いまのべている教えとは相反するものではない。「あなたたちも知っているとおり、昔の人は『にせの誓いをするな、主に対する誓いをはたせ』と教えられていた。しかし私は言う。決して誓ってはならない。天を指して誓ってはならぬ、そこは神の玉座である。地を指しても誓ってはならぬ、そこは神の足台である。イエルサレムを指しても誓ってはならぬ、そこは大王の都である。自分の頭を指しても誓ってはならぬ。あなたは一本の髪の毛さえ、白くも黒くもできないものである。あなたたちは、はいならはい、いいえならいいえ、とだけいえ。それ以上のことは、悪魔から出る」(マ5・33~37)。

 さてこのことばは誓いを全面的に禁止していると考えてはならない。なぜならすでにのべたように、主ご白身また使徙たちも誓いをたてたからである。主がこのようにおおせられたのは、誓いにおいては偽りだけに注意すればよいと思い、ごくささいなことや無価値なものについてもしばしば誓いをたて、また他の人々にも誓わせていたユダヤ人の誤った考え方をただすためであった。救い主はこのような習慣を咎め排斥し、必要なしに絶対に誓ってはならないと禁じておられるのである。

19 むやみに誓ってはならない

 誓いは人間の弱さのために定められており、実は悪に由来しているのである。つまり誓いは誓いをたてる本人の心変りや、他の方法では信じようとしない相手の頑固さを表わしている。しかし誓いが必要な場合もある。救い主は、「はいならはい、いいえならいいえとだけ言え」とおおせられているが、このような言い方をもって主は、日常のささいな事柄における誓いを禁じられたのである。とくに、あまり簡単にまた気楽に誓いをたてないよう戒めておられるのである。そしてこの点を信者たちに教え込まなければならない。なぜなら聖書や聖なる教父たちの証言によると、あまり簡単に誓いをたてる習慣からほとんど無限に近い悪が生まれるからである。集会の書には、「あなたの口を誓いに馴らさず、聖なるお方の御名を口にする慣わしをつけるな」(23・9)とあり、また、「誓いを口にしがちな人は悪を重ね、罰の鞭はその人の家を離れない」(23・11)とも書かれている。なおこのことについては、聖バシリウスや聖アウグスチヌスの偽りに関する著作の中で多くのことがのべられている。

 第二戒によって命じられていることについての説明はこれだけにとどめ、つぎに、禁じられていることについて説明することにしよう。

20 神の御名の濫用と偽りの誓い

 第二戒は神の御名をみだりに呼ぶことを禁じている。熟慮せず向こう見ずに誓いをたてる人は明らかに重大な罪をおかす。それがどれほど重い罪であるかは、「あなたの神である主の御名をみだりに呼ぶな」ということばで示されている。このことばは、この罪がなぜそれほど悪くまた憎むべきものであるか、いわばその理由を明らかにしている。それはわれわれの神にして主であると告白するお方のご威光を損なうからである。

 この掟はまた、偽りの誓いをたてることを禁じている。実際、神を偽証人にたてるという、これほど大きな罪から遠ざからない人は、神に無限の侮辱を加えることになる。このような人は、ある事柄は神に隠されていると考えて神を無知者に仕立てたり、あるいは証言をもって偽りを確認しようとする悪意と不正の主にするからである。

21 偽りの誓いとは

 さて、偽りであると知りながら真実であると誓って断言する人だけが偽りの誓いをたてるのではなく、実際は真実であることを自分は偽りであると思っていながら真実であると誓う人もやはり偽りの誓いをたてる。偽りとは自分の考えおよび内心の思いに反して語ることであり、したがっていまのべたようなことがたしかに偽りでありまた偽りの誓いであることは明らかである。

22 その他の偽りの誓いについて

 同じような理由から、実は偽りであるものを真実であると思って誓う場合も、事柄全体を可能なかぎり調べ確認する配慮をまえもってしていないかぎり、偽りの誓いをたてることになる。たしかにかれのことばと考えは合致しているが、やはり第二戒にもとるのである。

23 約束を守らない人は偽りの誓いをたてたことになる

 また、約束を果す意志はないのに、あることをすると誓って約束した人、あるいはその意志はあっても実際に果さない人も偽りの誓いをたてているのである。誓いをもって神に身をささげながら、それを守らない人々の罪もこれに属する。

24 正義にもとることを誓ってはならない

 さらに、誓いのための三つの条件のひとつである正義を欠く場合も第二戒にそむくことになる。だれかが殺人のようなある大罪をおかすことを誓った場合、真剣に心から誓いまたその誓いには先述した条件のひとつ、真実があるとはいえ、第二戒にそむくのである。

 また、独身や清貧をすすめる福音的勧告に従わないという誓いのように、ある軽蔑から来る誓いも、右にあげた種類の誓いに属する。たしかにだれもこれらの勧告に絶対的に従う必要はないが、しかし従わないと誓うものは、その誓いをもって神のすすめを軽蔑し冒涜するのである。

25 ささいな証拠をもとに誓ってはならない

 また、真実ではあるが取るに足りない、ほとんど無関係な事柄をもとに真実であると推測し、それを誓う人もこの掟にそむき、判断という点で罪をおかす。なぜならそのような誓いには真実があるとはいえ、いくぶん誤りがあるからである。すなわちこのようにぞんざいに誓いをたてる人は、偽りの誓いをたてる危険が大いにあるからである。

26 偽りの神々にかけて誓ってはならない

 さらに、偽りの神々にかけて誓う人も偽りの誓いをたてることになる(出23・13参照)。実際、偽りで架空の神々を真の神として証人に立てること以上に真理に反することはない。

27 聖書に対する尊敬

 ところで、聖書は偽りの誓いを禁じるにあたって、「あなたの神の御名をけがすな」(レ19・12)と言っているが、これは第二戒が尊重するように命じているその他の事柄をないがしろにしないよう命じているのである。たとえば神のみことばの場合がそうで、これは信仰者だけでなく、判事の書に出て来るモアブ人の王エグロンのように(3・20参照)時として不信仰者からさえとうとばれている。聖書のもつ本来の正しい意味をまげて不信仰者の教えや異端に合わせようとすることは、神のみことばに対する最大の侮辱である。この罪について聖ペトロは、「それらの中には理解しにくいところがあるので、無学な者や心の定まらない人々は、他の聖書に対してもそうするように、その意味をまげ、自分自身の亡びを招いてしまう」(ペ②3・16)と警告している。

 また最大の敬意を払うべき聖書のことばや格言を、世俗的な会話や笑い話、雑談、お世辞、悪口、占い、名誉を傷つけるような小冊子、その他似たようなことのために用いることは、聖書に醜い恥ずべき汚点をつけることになる。トリエント公会議はこのような罪を処罰するように命じている。

28 神に依り頼まないものは罪をおかす

 さいごに、災いにおいて神の助けを求める人は神をあがめるのであるが、神の助けを願わないものは神にささぐべき礼拝を拒むのである。後者についてダヴィドは、「かれらは神に助けを求めなかったので、理由もなく恐怖におののいた」(詩14・5ヴルガタ訳)と言っている。

29 冒瀆について

 また、最高の賛美をもって全被造物から祝せられあがめられるはずの神の御名や、神とともに支配している聖人たちの名を不潔なけがれた口をもって冒瀆し呪う人は、いっそう憎むべき罪をもって身をしばるのである。この罪はきわめて恐るべき大きな罪で、聖書は冒瀆についてのべる場合、時として祝福という(反)語を用いるほどである(列①21・13、ヨブ1・11参照)。

30 それらの罪に対する罰

 罰や責め苦に対する恐れは罪をおかそうという気持を大きく制御するのがつねであるから、司牧者は人々の心をいっそう動かし、より容易にこの掟を守らせるようにするため、「主がいつわりのために御名をよぶ人を罰せずにはおかない」(出20・7)ということばを、いわば付録として入念に説明すべきである。

 まず、このような罰がこの掟につけられているのは当然であることを教えるべきである。罰をつけることによって罪の重さが明らかにされ、また人間が滅びるのを喜ばれず、われわれがご自分の怒りと咎めを受けることのないよう、このような罰を示してわれわれを恐れさせ、ご自分の怒りよりもむしろあわれみを得させようとする神の慈愛が示されているのである。したがって、司牧者はこの点を強調し、信者たちがこの罪の大きさを知り、それをいっそう深くいみ嫌い、それを避けるためによりいっそうの注意と配慮を払うようにさせるべきである。

 またこの罪に対する人間の傾きはきわめて大きく、そのため掟を定めるだけでは十分ではなく、さらに罰をつける必要があったことを説明すべきである。このような知識がどれほど有益であるかは信じられないくらいである。実際、向こう見ずに自分の力を過信することほど有害なことはなく、自分の無力を知ることほど有益なことはない。

 さいごに司牧者は、神はこの罪に対して特別の罰ではなく一般的な罰しかお定めになっていないが、しかしこの罪をおかすものはすべて罰されずにはいないことを教えなければならない。

 したがってわれわれが毎日、受けている種々の苦しみは、この罪についてわれわれに忠告を与えているのである。つまり人間はこの掟にそむくからこそ、大きな災いに陥るのであると推論できる。そしてこれらの災いを眼前にすることによって、人間は以後よりいっそう注意深くなることはたしかである。信者たちは聖なる恐れにおののきながら、あらゆる努力を払ってこの罪から遠ざからなければならない。すべてのむだごとがさいごの審判で裁かれるとするならば(マ12・36参照)、神の御名をこれほど侮辱する極悪の罪はいかほどの裁きを受けることであろうか。