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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 13-24 | 聖変化の言葉、御血の質量・形相

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

13 種なしパンであることがふさわしい

 このように小麦のパンだけが聖体の質料とみなされるべきであるが(使徒伝承はこのように教え、カトリック教会もそれを認めている)またこの秘跡を制定したもうた日に主が行われたことからして、このパンは種なしパンでなくてはならないことが容易に理解される。なぜなら主は、ユダヤ人が種いりパンを家に保存することを禁じられていた「種なしパン」(出12・19)の最初の日に、この秘跡を捧げ制定されたからである(マテオ26・17、マルコ14・12、ルカ22・7)。もし誰かが福音史家ヨハネの権威をかりて、これらすべては過越の祝日の前に行われた(ヨハネ13・1)のだと反対をとなえたとしても、その異論を打破するのは容易である。なぜなら他の福音史家たちが「種なしパン」の最初の日とよんでいるその祝日は、救い主が過越を祝われた木曜日の夕方から始まっていたので、自然の一日の時間は日の出に始まるべきだと考えていた聖ヨハネはそれを過越の前日とよんでいるからである。(1) それゆえ、聖ヨハネ・クリゾストムスは「種なしパン」の祝日の第一日を、夕方種なしパンを食べねばならなかったその日と解釈している。(2)

 種なしパンを用いて聖変化を行なうことは信者たちがこの秘跡においてもたねばならぬ心の清さと汚れなさとを示すためにどれほど適しているか、使徒聖パウロはつぎの言葉によってそれを教えている。「あなたたちは新しいねり粉になるために、古いパン種を取り除かねばならぬ、あなたたちは種なしパンだからである。われわれの過越であるキリストはすでにいけにえとなられたからである。ではわれわれは、古いパン種でもなく、清さと真との種なしパンを用いて、祝いを行おう」(コリント前5・7-8)と。

訳注
(1) これは定説ではなく、一つの解釈にすぎない。
(2) S. Joannes Chrysostomus, homil. 83, in Matth. 参照。

14 種なしパンは絶対に必要ではない

 しかしながら必ず種なしパンでなければ秘跡は存在しえないというほどに必要ではない。なぜなら種のあるなしにかかわらず両方ともほんとうのパンの名、特質を保っているからである。とはいえ、だれも自分個人の権威をもってあるいは軽率に教会のほむべきしきたりを変えてはならない。また種なしパンだけを用いて聖なる奥義を行なうよう教皇から命じられているラテン典礼の司祭たちにはなおさら許されないことである。

 聖体の質料の第一の部分については、これで十分であろう。しかし終わりにあたってつぎのことを注意しておこう。すなわちこの聖なる奥義にあずかりえ、またあずかるべきものの数を正確に決定できないという理由から、 秘跡のためにどれ位の量の質料を用うべきかは決まっていないということである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 74, a. 4 参照。

15 御血のための質料について

 つぎに聖体の他の質料についてのべよう。この第二の質料はブドーの実からしぼったブドー酒で、それに少量の水を混ぜたものである。カトリック教会は、救い主がこの秘跡の制定においてブドー酒をお用いになったことを常に教えてきた。救い主は「あなたたちとともに新しいブドー酒を飲む日まで、以後私はもうブドーの液を飲まないだろう」(マテオ26・29、マルコ14・25)とおおせられている。聖ヨハネ・クリゾストムスは、聖体の奥義に水だけを用うべきだと主張した人々の異端がおこるずっと以前に「ブドーの実から生ずるのはブドー酒であって水ではない」といい、すでにこの彼らを反ばくしているようである。(1)

訳注
(1) S. Joannes Chrysostomus, homil. 83, in cap. Matth.; Sum. Theol., III, q. 74, a. 5 参照。

16 水をブドー酒に混ぜること

 教会は常にブドー酒に少量の水を混ぜてきた。諸公会議の権威と聖チプリアヌスの証言によると、主御自らそうされたのである。(1) またこの混合はキリストの御脇腹から流れ出た御血と水とを思いださせる(ヨハネ19・34)。なお水は黙示録に見られるように人を表している(17・15)。それゆえブドー酒に混ぜられた水は、信者とその頭キリストとの一致を表している。そしてこの慣習は使徒から教会に受けつがれ保持されてきたのである。

訳注
(1) S. Cyprianus, 2 epist. ad Caelicium; Sum. Theol., III, q. 74, a. 6 参照。

17 水の分量、必要性について

 わざとブドー酒に水を加えないことは、大罪を免れないほど重大であるとはいえ、それをはぶいたとしても秘跡は存在しうる。しかし司祭は聖なる奥義を捧げるにあたって、ブドー酒に少量の水を混ぜなければならないこと、しかも少量でなければならないことに注意すべきである。なぜなら神学者の意見および判断では、この水はブドー酒に変化するからである。それゆえ、教皇ホノリウスはつぎのようにいっている。「あなたがたの間には、非常に非難すべき弊風がおこっている。それはブドー酒を水よりはるかに多く入れるという全教会の道理にかなった慣例に反して、犠牲に用いられる水の分量がブドー酒のそれよりも多いということである」と。(1) このように、この秘跡の質料はパンとブドー酒の二つだけであり、教会はある人々があえてしているようにパンとブドー酒以外のものを捧げることのないよう、多くの教令をもって禁じている。(2)

訳注
(1) S. Honorius Papa, de consecrationed. 2, cap. 1, 2 et seq.
(2) Sum. Theol., III, q. 74, a. 7-8 参照。

18 パンとブドー酒はなにを示しているか

 つぎにこのパンとブドー酒のもつ二つの象徴が、この秘跡の中に認められる事柄を表すにいかに適しているかを見ることにしよう。まず、それらは人々の真の生命としてのキリストを表している。主はこうおおせられた。「私の肉は真の食物であり、私の血は真の飲物である」(ヨハネ6・56)と。すなわち主キリストの御体は、その秘跡を清らかにかつ信心をもって授かるものにとっては、永遠の生命を与える食物である。それゆえ、聖体の秘跡が肉体の生命をささえるものを質料としていることは適切なことであり、このことは信者たちに彼らの精神と霊魂とが主の尊い御体と御血によって飽かされるということを容易に理解させる。(1)

 これら二つの要素はまた人々に聖体の中に主キリストの御体と御血とが真に実在していることを知らせるのに役だつ。なぜならわれわれは毎日、パンとブドー酒とが自然の力によってわれわれの血肉に変化するのを見ており、そのことからわれわれは、パンとブドー酒との実体が聖変化の言葉によって主の真の御体と御血とに変えられるという信仰へと容易に導かれるのである。

 またこれらの要素の感嘆すべき変化は、霊魂のなかにおこることをわれわれにかいま見せてくれる。実際、パンとブドー酒との実体は目に見える外観上の変化はないままに実際のキリストの御体と御血に変えられるのであるが、それと同じくわれわれはなんの変化もきたさないように見えても、しかし聖体の秘跡によって真の生命を受け、内的に霊的生命を一新されるのである。最後に、教会は多くの肢体から成り立つ一つの体であるが、その一致をよく表わしうるのはパンとブドー酒以外にない。なぜならパンは多くの麦の粒から、ブドー酒は多くのブドーの実から作られていて、われわれが多数であっても聖体の神的奥義の絆によって密接に結合され、あたかも一つの体とされていることをよく表わしているからである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 74, a. 1 参照。

19 パンの聖変化の言葉について

 つぎにパンの聖変化に用いなければならない形相についてのべよう。それは信者にこの奥義を教えなければならない(もちろん、必要であれば教えるが)というのではないが(聖職にないものはこれらについて知る必要はないから)、司祭たちがそれを知らず、秘跡においてひどいあやまちを犯さないようにするためである。福音史家聖マテオ(26・26)聖ルカ(22・19)および使徒聖パウロ(コリント前11・24)は、「これは私の体である」という言葉がその形相であると教えている。すなわち「食事の間、イエズスはパンをとって、祝してわり、それを弟子たちに与えて『とって食べよ、これは私の体である』とおおせられた」と書いている(マテオ26・26、マルコ14・22、ルカ22・19、コリント前11・24)。そして聖変化のこの形相は主キリスト御自ら用いたもうて以来、常にカトリック教会において用いられてきたのである。

 われわれはここで無数に引用しうる教父たちの証言、およびすでに周知のフロレンスの公会議の決定をあげるまでもなく、とくに「私の記念としてこれを行なえ」(ルカ22・19)という主のみ言葉からさきにのべた言葉がパンの形相であることがわかる。すなわち主がここでお命じになっていることは、御自ら行われたことだけでなく、秘跡の効果を意味すると同様に生ずるためにおおせられたみ言葉をも含んでいるのである。

 このことはまた道理によっても容易に納得できる。秘跡の形相とは、その秘跡によって生ずる効果を意味する言葉であるが、先に引用した言葉は聖体において行なわれること、すなわちパンが主の真の御体に変化することを意味しかつ表わしている。したがってこの言葉が真にその形相であるということになる。福音書にいわれている「パンを祝して」(マテオ26・26)という言葉もこの意味に解することができる。これは「彼はパンをとって祝し『これは私の体である』とおおせられた」と解釈せねばならないように思われる。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 78, a. 1, 2, 4-6 参照。

20 言葉全体は必要ではない

 福音史家は、右に引用した言葉の前に「とって食べよ」という言葉を加えているが、しかしこの言葉は明らかに質料の聖変化に関係するものではなく、単に秘跡の用途を示しているにすぎない。それゆえその言葉を司祭がのべねばならないことはもちろんであるが、秘跡の存在に絶対に必要ではない。同じようなことは御体と御血の聖変化においてのべられる「enim」(なぜならば)という接続詞についてもいえる。そうでないとすれば、もし秘跡を拝領する人が誰もいない場合、聖体を聖別してはならず、また聖別できないということになる。しかし教会の用い方と慣例に従って主のみ言葉をのべる司祭は、たとえ聖体が誰にも授けられないとしても、聖体の質料としてふさわしいパンを実際に聖別するということは疑いを許さないところである。

21 御血の聖変化の言葉について

 秘跡の第二の質料であるブドー酒の聖変化に関して司祭は上にのべたと同じ理由でその形相をよく知り、わきまえていなければならない。つぎの言葉がその形相である。「実にこれは、新しくそして永遠なる契約の私の血の杯である。信仰の奥義、それはあなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである。」これらの言葉の多くは聖書から引用されており、またそのあるものは使徒的伝承から教会が受けついだものである。「これは杯である」という言葉はルカ福音書(22・20)と聖パウロの書簡(コリント前11・25)の中に書かれてあり、それに続く「私の血」あるいは「あなたたちと多くの人々の罪のゆるしのために流される新しい契約の血」は、一部はルカ福音書(22・20)に、一部はマテオ福音書(26・28)の中にしるされている。そして「永遠の」と「信仰の奥義」という言葉は、カトリックの教えの解釈者であり擁護者である聖伝によるものである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 78, a. 1, 3, 4-6 参照。

22 これが真の形相であること

 もしパンの聖変化の形相についてのべたことを思い出すならば、これらの言葉がブドー酒の聖変化の形相であるということはだれも疑いえないであろう。というのは、第二の質料の形相はブドー酒の実体が主の御血に変化することを表す言葉でなければならない。そして、これらの言葉はそのことを示しているのであるから、ブドー酒の聖変化のために他の形相を用うべきではない。

 これらの言葉はまた、聖体の秘跡がもたらす、ご苦難における御血のすばらしいいくつかの効果を表わしている。その効果の第一は永遠の新しい契約の権利によってわれわれに与えられる永遠の世継ぎを得るということである(ヘブライ10・19)。第二は、「信仰の奥義」によって正義に到達することである(ロマ3・25)。なぜなら神はキリストを、彼が自ら義なるものであり、またイエズスを信じるものを義とされるために、その御血によって信仰によるなだめの供物と定められた(ロマ3・25-26)からである。第三の効果は罪のゆるしである(ヘブライ9・14)。

23 御血の形相の説明

 ブドー酒の聖変化の言葉は奥義にみち、しかも最も適切なものであるから、念入りに吟味されねばならない。まず、「これは私の血の杯である」という言葉は、「これは、この杯に入れられている私の血である」というふうに解釈すべきである。ここで御血は、信者たちの飲物として聖別されるのであるから、杯についてのべているのは、大いに賢明なまた道理にかなったことである。なぜなら御血そのものは、それが器の中に入れられていないかぎり飲物としての意味をもたないからである。

 つぎに「新しい契約の」とつけ加えられているが、それはキリストの御血が旧約におけると同様の(それについて聖パウロは「前の契約は血を流さずにたてられたのではない」(ヘブライ9・18)とのべている)かたどりとしてではなく、ほんとうにかつ実際に人々のために流されたことをわれわれに悟らせるためであり、そしてこのことは新約に属するものだからである。(1) そのため聖パウロは、「彼は新しい契約の仲介者であって、前の契約の時の違反をあがなうためになくなられた。それは、選ばれた人々に約束された永遠の遺産を受けつがせるためである」(ヘブライ9・15)と書いている。

 「永遠」のという語は、永遠の遺言者なる主キリストの死によってわれわれがその権利者となった永遠の遺産者をさしている。(2)

 そのつぎの言葉、「信仰の奥義」は事柄の現実性を排するものではなく、ただわれわれの目から遠い、隠されてあるものを固い信仰をもって信じなければならないことを意味している。この場合これらの言葉のもつ意味は、洗礼の時のそれとは異なっている。なぜなら、ここではわれわれが信仰をもってブドー酒の形色のもとに隠された御血を見る時、それを信仰の奥義とよんでいる。これに対して洗礼が、われわれからは信仰の秘跡、ギリシャ・カトリックからは信仰の奥義とよばれるのは、洗礼がキリスト教の信仰の全面的表白を含んでいるからである。(3) また他の理由からもわれわれは主の御血を信仰の奥義とよんでいる。すなわち信仰がわれわれに、神の真の御子、神であると同時に人であらせられる主キリストがわれわれのために死をたえ忍ばれたことを信ずるよう求める時、人間の理性は非常な困難と労苦を感じるのであるが、そのご死去がこの御血の秘跡によって表わされているからである。(4)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 78, a, ad 3 参照。
(2) ibid., ad 4 参照。
(3) ibid., ad 5 参照。
(4) ibid., ad 6 参照。

24 御血と御死去との関連について

 それゆえ、御血の聖変化は、その「多くの人のために罪のゆるしをえさせるために流す……」というみ言葉によって御体の聖変化のとき以上に救い主のご苦難を思いおこさせてくれる。すなわち御体と別に聖別された御血は、主のご苦難、ご死去および御苦しみの性質を、すべての人の眼前におくための大きな意義と力とをもっている。(1)

 それに加えられるつぎの言葉、「あなたたちと、多くの人々のために」の前半は聖ルカ(22・20)から、後半は聖マテオ(26・28)からとられたもので、教会は聖霊のお導きのもとにそれらを合わせたのである。これらの言葉はご苦難の効果と利益とを表わす役目をしている。実際、その効力からいうと主の御血は万人の救いのために流されたのであるが、しかし人間がそこから引き出す効果から見ると、主の御血は、すべてのものにではなく、多くの人々にだけその効力を及ぼしていることが容易に分かる。主が「あなたたちのため」とおおせられたのは、そこにいて話しかけておられたもの、すなわちユダヤ人の間から選ばれたもの、ユダを除いた弟子たちをさしてである。「多くの人々のため」とつけ加えたもうのは、ユダヤ人たちの中から、あるいは異邦人の中から選ばれた他のものを考えておられたからである。(2) そして、ここではただ選ばれたものにだけ救霊の果を得させるご苦難の効果に関することであるから、「万人のために」といわれなかったのはもっともなことである。使徒聖パウロの「キリストもまた多くの人々の罪を負うために一度捧げられた」(ヘブライ9・28)という言葉、聖ヨハネ福音書の中の「その彼らのために、私は祈ります。この祈りは、この世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。彼らはあなたのものです」(ヨハネ17・9)という主のみ言葉もこのことを指している。聖変化のこれらの言葉には、その他多くの奥義が含まれているが、司牧者は天上のことの絶えざる黙想と探求によって神のお助けのもとに自身で容易にそれらを見出しうるであろう。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 78, a. 3 ad 2 et 7 参照。
(2) ibid., ad 8 参照。