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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 25-36 | 聖体の教義、二回の聖変化

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

25 感覚だけをもってこの秘跡に接してはならない

 つぎに絶対に信者たちの無知を許してはならないある点について説明しよう。使徒聖パウロは「主の御体をわきまえないもの」(コリント前11・29)は最も重い大罪を犯すと忠告している。それゆえ、司牧者は、まず第一に信者たちにその精神と理性とをあらゆる努力をもって感覚的なものの上にまで高めるよう教えねばならない。もしも信者たちが聖体の秘跡に含まれるものは感覚によって認められるものだけだと信ずるならば、彼らは必ず最大の不敬を犯すであろう。視覚、触覚、嗅覚、味覚はパンとブドー酒の形色しか、この秘跡にとらええないからである。それゆえ、できるかぎり信者たちの考え方を感覚による判断から引き離し、神の無限の御力と権能とに思い至らせるよう配慮すべきである。

26 聖変化によっておこることについて

 カトリックの信仰は、この秘跡においてとくに三つのことが聖変化の言葉によって生ずることを何の躊躇もなく、信じまた公言している。その第一は、主キリストの実際の御体、すなわち処女マリアから生まれ御父の右に座したもうその御体が聖体の中に含まれているということである。第二に感覚によってはなんら異なり変わったところはないように見えても、実は質料の実体は少しも残っていないということである。第三は以上の二つのことから容易に結論されることであるが、聖変化の言葉が確かにのべているように、目に見えまた他の感覚にとらえられる形色(accidentia)が、依存する主体なしに説明不可能の感ずべき方法によって存在するということである。すなわちパンとブドー酒の形色(accidentia)はすべてそのままあるのであるが、しかしそれはいかなる主体にも内在(inhaerere)せずにそれ自体で存在するのである。なぜならパンとブドー酒の実体は主の御体と御血に変化させられ、全く残っていないからである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 75, a. 2, 5, 6; q. 77, a. 1 seq. 参照。

27 処女マリアから生まれた同じキリストの御体であること

 まずこれらの効果の第一のものについてのべよう。司牧者は、聖体の中に主の御体が実在することを確証された救い主のみ言葉がいかに明瞭であり確実であるかを理解させるよう努むべきである。

 実際、主は「これは私の体である、これは私の血である」(マテオ26・26、マルコ14・22-24、ルカ22・19)(1) とおおせられたが、良識をもった人は、だれでもすぐにこのみ言葉が何を意味するかを理解するであろう。とくにこのみ言葉は人性についていわれ、そしてキリストは真の人間であったというカトリックの信仰になんらの疑いもありえないのであるから、理解は容易である。その聖性と学識によって非常に卓越していた聖ヒラリウスは、キリストの御体と御血の実在についてのべ、キリスト御自らそれを宣言され、またその御肉体が真の食物であることを信仰が教えているのであるから、この真理について疑う余地はないと明らかに書いている。

訳注
(1) S. Hilarius, lib. 8 de Trinit. 参照。

28 キリストの御体の実存についての説明

 司牧者たちはまた、聖体が実際にキリストの御体と御血とを含んでいることを容易にわからせるため他の説明を加えるべきである。聖パウロは、主がパンとブドー酒を聖変化され、使徒たちにその聖なる奥義を授けたもうたことを思いおこした後で「だからそのパンを食べ、この杯を飲むごとに、おのおの自分を調べなければならない。主の御体をわきまえずに飲食するものは、自分自身への裁きを飲食することである」(コリント前11・28-29)と続けている。もし異端者たちが主張するように、この秘跡が単にキリストのご苦難の記念と象徴にすぎないとすれば、なぜ信者たちに自らを反省するよういましめる必要があったのであろうか。彼は裁判者のあの重々しい語調で、聖体の中に隠された主の御体を不相応に拝領しこの食物を他の食物と区別しない人は、憎むべき罪を犯すと宣言しているのである。

 聖パウロは、いま引用した箇所の少し前で、つぎのように詳しくのべている。「われわれが祝する祝聖の杯はキリストの御血にあずかることではないか。われわれがさくパンはキリストの御体にあずかることではないか」(コリント前10・16)と。これらの言葉は主キリストの御体と御血の真の実体を意味している。それゆえ、司牧者は聖書のこれらの章句を説明すべきであり、とくに、それらは神の聖なる教会によって解釈されたものであり、何も疑わしいことあるいは不確実なことを決して含まないということを信者たちに教えるべきである。

29 聖体に関する教会の教えを理解する方法

 聖体に関する教会の教えを理解するためには二つの方法ないしは手段がある。その第一は、教会のはじめからこの方、各時代を飾り、また教会の教義の最上の証人であった教父たちの書を参照することである。さて彼らはみな異口同音に教義の真実性を明らかに教えている。各々の証言を引用することは、はてしない仕事となるから、それらの中、少数のものをのべかつ示すにとどめよう。それらによって容易に他を判断することもできるであろう。

 その第一は聖アンブロジウスである。彼は奥義を授けられる人々に関する書簡の中で、自分の信仰を宣言し、キリストの真の御体が処女マリアからとられたように、この秘跡によって真のキリストの御体が拝領されるのであり、それは確固として信ずべきであると証言している。また他の箇所では、聖変化前には、そこにパンがあるが、その後ではキリストの御肉体がある、とのべている。(1) つぎに聖ヨハネ・クリゾストムスをあげよう。彼はその信仰と権威とにおいて前者に劣るものではない。彼は同じ真理を多くの文章をもって公言しかつ教えているが、とくに「聖なる奥義にふさわしからずしてあずかるもの」について語っているホミリア第60および聖ヨハネ福音書に関するホミリア第41、第46において教えている。そこで彼はつぎのようにいっている。「いわれたことが理性や感覚に反するように思われる時でさえ、神に従い奉り、彼に反対を唱えないようにしよう。神のみ言葉は謬まりえないのに対し、われわれの感覚は容易にまどわされるからである」と。(2)

 またカトリック信仰の非常に強烈な擁護者であった聖アウグスチヌスは常に同様に教えている。彼はとくに詩編33の題名について注釈しながらつぎのようにいっている。「自らを己が手中にもつことは人間には不可能である。それはただキリストにのみふさわしいことであった。なぜなら主はご自身の御体を与えながら『これは私の体である』とおおせられた時、ご自分の手中におられたからである」と。(3) 最後に(聖ユスチヌスや聖イレネウスははぶくとして)聖チリルスは聖ヨハネ福音書注解の第四巻でキリストの真の御体は聖体の中にあり、そしてどんな誤った詭弁を弄した解釈も決して彼のみ言葉をあいまいにすることはできないと断言している。(4)

 もし司牧者が他の教父たちの証言を知りたいと思うならば、聖ディオニジウス(5)、聖ヒラリウス(6)、聖ヒエロニムス(7)、聖ヨハネ・ダマスクス(8)を容易に引用できるであろう。そしてこの問題に関するこれら教父たちの非常に重要な教えは敬虔な学識ある人々によって一冊にまとめられ、いたる所で読まれている。

訳注
(1) S. Ambrosius, de iis qui myster. init. c. 9 et de cons. dist. 2. c 参照。
(2) S. Joannnes Chrysostomus, ad populum Antioch., homil. 60 et 61; idem homil. 44 et 45 in Joann. 参照。
(3) S. Augustins, concione 1 versus finem 1 Reg. 25 参照。
(4) S. Cyrillus, lib. 4 in Joann. c. 13 et 14 参照。
(5) S. Dyonisius, lib. de Eccles. Hierar. cap. 3 参照。
(6) S. Hilarius, lib. 8 de Trin. 参照。
(7) S. Hieronymus. epist. ad Masum de filio prodigo 参照。
(8) S. Joannes Damascenus, lib. de orth. fide, c. 14 参照。

30 異端に対する教会の態度

 信仰の事柄に関する教会の教義を知る第二の方法は教会が反対説や反対意見についてなした断罪(damnatio)である。聖体の中にキリストの御体が実在するという教義は常に全教会に広められ普及しており、すべての信者たちからあまねく受け入れられていたもので、第十一世紀にベレンガリウスがあえてそれを否定し、聖体には象徴しか存しないと主張した時、教皇レオ九世によって召集されたヴェルチェリの宗教公会議において、彼は直ちに全会一致をもって有罪を宣告され、また彼自身自分の説を異端として破棄したほどであった。しばらくして彼がこの不敬な謬説にまた立ち帰った時も、さらに三つの宗教会議、すなわち一つはツールの宗教会議、他は教皇ニコラウス二世によってまたグレゴリウス七世によって召集された二つのローマの宗教会議によって、有罪を宣告された。これらすべての決議は、ラテラン公会議においてインノセンチウス三世によって確認されたのである。最後にフロランスとトリエントの公会議はこの真理に対する信仰をより明らかに宣言し確立した。(1)

 もし司牧者がこれらの権威を熱心に説明するならば(謬説によって盲目になって何ものにもまして真理の光を嫌悪するものについては何もいうまでもない)弱いものを強め、信心深い霊魂を慰めと喜びをもってみたすことであろう。

訳注
(1) Conc. Florent., in doctrina de sacramentis, cap. 4 et can. 22; Conc. Trid., sess. 13 参照。

31 聖体の教義は信条の中に含まれる

 この教義についての信仰が信仰箇条の中に含まれることを疑ってはならない。神が全能にましますことを信じかつ公言するものは、当然われわれが聖体の中に感嘆し崇敬することを行なう権能を神が欠いでおられないことを信じているのである。また聖なる公教会を信じるものは必然的に、いま説明した教義を真実として認めるはずである。

32 教会と聖体との関係

 この崇高な秘跡の尊厳さを観想することほど敬虔な霊魂に幸福と利益をもたらすものはほかにない。それによって彼らはまず、モイゼの律法が象徴やかたどりとしてだけもっていたことを現実に具現している福音的律法がどれほど完全なものであるかを悟るのである。それ故、聖ディオニジウスは、われわれの教会はユダヤ人の会堂と天のエルサレムとの中間に立ち双方にあずかっている、といっている。(1) 確かに信者たちは聖なる教会の完全さ、その光栄の偉大さを相応にして感嘆しつくすことはできないであろう。なぜなら教会と天国の至福との間にはただ一つの段階しかないからである。すなわちわれわれが神にして人なるキリストをもつということは天国の霊魂たちと共通であり、われわれを彼らから区別するただ一つの段階は、天国の霊魂は至福直観によって、われわれはご臨在はしても目に見えず、聖なる奥義の感ずべき掩いの下にご自分を隠したもう御者を、固いゆるぎない信仰をもって礼拝するということである。

 また信者たちはこの秘跡を通して救い主キリストの無限の愛に触れるのである。実に主はわれわれからおとりになったこの人性を、われわれから遠くにもち去られず、かえって「私は人の子と交わることを楽しみとした」(格8・31)といいうるように、絶えずそして実際にできるかぎりわれわれと共にとどまり、交わることを欲したもうということは、主の愛に最もふさわしいことである。

訳注
(1) S. Dionysius, de Eccles. Hierarch., cap. 7 circa medium 参照。

33 聖体にましますキリストの御体は完全である

 ここで、司牧者は聖体はキリストの真の体すなわち骨や神経のような実際の身体を構成するすべてのものはもちろん、キリスト全体を含んでいることを説明すべきである。キリストという名は神であると共に人である御者、ただ一つのペルソナの中に神性と人性とを併せもったお方のみ名である。それゆえ、キリストは二つの実体とそれらに属するもの、神性と霊魂および身体の各部分、血さえも含めた全き人性をもっておられ、そしてこれらすべてが聖体の中にあると信ずべきである。なぜなら天国において、キリストの全き人性はただ一つのペルソナにおいて神性に合わされているのであるから、聖体の中にまします御体が神性から分離されているなどと考えることは許されない。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 76, a. 1 参照。

34 聖体における御血、ご霊魂、神性の存在様式は御体のそれと異なる

 しかしながら、司牧者は、これらのすべてがこの秘跡の中に同じように、また同じ根拠によって含まれるべきではないということに注意させる必要がある。あるものは聖変化の力および効力によって聖体の中にあるといわれる。すなわち言葉はそれらが意味するものを生ずる。そこからして神学者たちは、言葉の形相によって表わされているものは秘跡の力によって・・・・・・・・(vi sacramenti)存在するのだといっている。そして彼らは、もしあるものが他のものと全く分離されているような場合、この秘跡の中にあるものは形相によって意味されているものだけであり、他のものは秘跡の中に見出されないと教えている。しかし他方形相が表わしているものと分離できないところからして、秘跡の中に同時に含まれるものもある。たとえば、パンの聖変化に対して用いられる形相は「これは私の体である」で、それは主の御体を表わしている。であるからキリストの御体が聖体の中に含まれているのは「秘跡の力によって」である。しかし御血、ご霊魂および神性は、聖変化の効力によってではなく、御体と分離できないところからして秘跡の中にあるのである。このような場合「併存によって・・・・・・」(exconcomitantia)秘跡の中にあるという。このように全きキリストが聖体の中にましますことは明らかである。すなわち二つのものが互いに絶対的に結ばれているとき、一つがあるところには、他のものもそこに必然的になければならない。同様に全きキリストはパンの形色の中にも、またブドー酒の形色の中にも、パンの形色の中には御体だけでなく、御血もそして全キリストそのままを含み、同じくブドー酒の形色は御血だけでなく、キリストの御体および全キリストを含んでいるということが結論できるのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 3; Sum. Theol., III, q. 76, a. 1-3 参照。

35 ではなぜ二回の聖変化があるのか

 すべての信者たちはこれらのことを以上のように納得し確信していなければならない。とはいっても二つの聖変化を別々に行なうということは理にかなったことである。まず、それは救い主の御血と御体とを分離させたご苦難を非常によく表わしている。聖変化において御血が流されたことに言及するのもそのためである。つぎに、この秘跡はわれわれの霊魂を養うためにあてられているので、それが食物と飲料の形で定められたことは真に適当なことであった。確かにわれわれの身体の完全な糧を形成しているものは食物と飲料とである。

36 形色のどの部分にも全キリストがましますこと

 全キリストはパンとブドー酒との両形色の中にましますだけでなく、各々の形色のきわめて小さな部分にもましますことを忘れてはならない。聖アンブロジウスはつぎのように書いている。「各人は、全キリストを受ける。そしてキリストは、各人の分け前の中に全きものであり、各人の間に分かたれることはなく、かえって各人に完全なご自分を与えたもう」と。(1) このことはまた福音史家たちのいうところによっても容易に結論できる。実際、主は、使徒たちに分けたもうたパンの一片ごとに、別々に形相の言葉をくりかえして聖別したもうたと思ってはならない。むしろ形相の言葉をただ一度だけおおせられて、聖なる奥義を捧げるためまた使徒たちに与えるために必要なだけのパン全部を聖別されたと考えるべきである。杯の聖別にしても「これをとって互いに分けよ」(ルカ22・19)とおおせられているところからして、そうされたことがわかる。

 これまでのべてきたことは、司牧者がキリストの真の御体と御血とが聖体の秘跡の中に含まれていることを教えうるためである。(2)

訳注
(1) S. Ambrosius, de cons. dist. 2, c. 76.
(2) Conc. Trid., sess. 13, cap. 3 et can. 3; Sum. Theol., III, q. 76, a. 3 参照。