第四章 聖体の秘跡
目次
- 37 全実体変化(Transsubstantiatio)について
- 38 全実体変化は聖書に基づいており、公会議において認められたものである
- 39 教父たちの教え
- 40 聖体が聖変化後にもパンといわれるわけ
- 41 どのようにして全実体変化は行なわれるか
- 42 全実体変化(Transsubstantiatio)という名称について
- 43 全実体変化の様式についての好奇的な詮索はいましむべきこと
- 44 聖体におけるキリストのご臨在は場所的ではない
- 45 パンとブドー酒の偶有(形色 accidentia)は依存するなんらの主体ももたないこと
- 46 キリストはなぜパンとブドー酒形色のもとにご自分を与えたもうのか
- 47 聖体の効力と効果について
- 48 食物が体に与えるものを聖体は霊魂に与える
37 全実体変化(Transsubstantiatio)について
つぎに第二の点、すなわち聖変化後、パンとブドー酒との実体はこの秘跡の中に残らないということを教えるべきであろう。このことは非常な感嘆をよびおこしうるものであるが、しかしそれはすでに説明したことと必然的に結ばれている。実際、聖変化後にキリストの御体と御血とが、それらが以前になかったパンとブドー酒との形色のもとに現に存在するとすれば、それは、あるいは場所の変更によってか、あるいは創造によってか、あるいは他の物体がそのものに変化したからかのいずれかによるものである。ところで、キリストの御体が他の場所から移動して聖体の中に臨在するということは不可能である。なぜなら物体が運動するというのは運動がはじめられる場所を去ることにほかならず、もし場所的運動によって臨在するとすれば、主は天国を離れねばならなくなるからである。またキリストの御体が創造によって聖体の中にましますということは、さらに信じられないことであり、考えることすらできない。それゆえ、主の御体が秘跡の中にあるのはパンが聖体に変化するからだといわなければならない。したがってパンの実体は必然的に何も残らないのである。(1)
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 2 et 4; Sum. Theol., III, q. 75, a. 2 参照。
38 全実体変化は聖書に基づいており、公会議において認められたものである
以上のとおりであるから、ラテランおよびフロレンスの公会議に集まった教父たちは明瞭な議決をもって、この教義の真理を教えたのであった。トリエントの公会議は、さらに詳しくつぎのように定義している。「もし至聖なる聖体の秘跡の中に、パンとブドー酒との実体が、われらの主イエズス・キリストの御体、御血とともにとどまるというものは、排斥される」と。(1)
このことは聖書の証言からも容易に立証される。まず主はこの秘跡の制定にあたって、「これは私の体である」(マテオ26・26、マルコ14・22、コリント前11・24)とおおせられた。ところで「これ」(hoc)という語は、目の前にある物の実体を表わすために用いられる。それゆえ、もしパンの実体がとどまっているとすれば「これは私の体である」とは絶対にいえない。(2) 他方、主は聖ヨハネ福音書の中で「私が与えるパンは、世の生命のために(わたされる)私の肉である」(6・51)とおおせられ、ご自分の御肉をパンとよんでいる。それから少し後に「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には生命はない」(6・54)とつけ加えられ、また「私の血は真の食物であり、私の血は真の飲物である」(6・56)ともおおせられている。さて、主はこのように明瞭かつ明白なみ言葉でご自分の御肉を真のパン、真の食物とおよびになり、また同じく御血を真の飲物と称したもうことによって、この秘跡の中にパンとブドー酒の実体がなんらとどまっていないことを十分に明言されているように見える。
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, can. 2.
(2) 「このパンは私の体である」と矛盾したいい方をされたはずである。
39 教父たちの教え
教父たちの書をひもどくものはだれでも、以上のような教えが常に彼らの一致した教えであったことを難なく認めうるであろう。聖アンブロジウスはつぎのように書いている。「あなたはおそらく『このパンは全く普通のものである』というかもしれない。まさしくこれは聖変化の前には普通のパンであるが、その後では直ちにパンからキリストの御肉となるのである」と。(1) そして、そのことをいっそう証拠だてるために、彼は多くの例や、たとえをもちだしている。また他の箇所で、ダヴィドの、「主は望むものをすべてつくられた、天と地とに」(詩134・6)という言葉を説明して、「外形はパンとブドー酒に見えても、聖変化の後ではキリストの御体と御血のほかは何もないと信ずべきである」と言っている。(2) 聖ヒラリウスも、ほとんど同じような言葉を用いて、同じ真理を教え、外的にはパンとブドー酒に見えてもしかし実際は主の御体と御血であると教えている。(3)
訳注
(1) S. Ambrosius, lib. 4 de const. dist. 2.
(2) S. Ambrosius, lib. 4 de sacram. cap. 4 et 6.
(3) S. Hilarius, de Trin. lib. 8 et de consecr. dist. 2, cap. 28 参照。
40 聖体が聖変化後にもパンといわれるわけ
ここで司牧者は、聖変化後に聖体がパンとよばれたとしても、別に驚くにあたらない理由を信者たちに知らせねばならない。その理由というのは、あるいは聖体がパンの形色をとどめているからであり、あるいは身体を養い強めるというパンの自然的特性を保っているからである。また物がどう見えるかに従って名づけるということは、聖書の慣例でもある。たとえば創世記の中で「三人の人」がアブラハムに現れたと書かれているが、実はそれは「三位の天使」であった。(18・2) 同様に、主キリストが天に昇りたもうた時「二人の人が使徒たちに現れた」とあるが、これらの人とは天使たちのことであったのである。(使1・10)
41 どのようにして全実体変化は行なわれるか
この奥義の説明はきわめて困難である。しかし司牧者は、聖なる真理の認識に相当進んだ人々に(というのはまだ弱い信仰の人々は、高度の真理の重さに圧倒される心配があるので)、この感嘆すべき変化がどのようにして行なわれるかについて理解させるよう努力すべきである。この変化は神の御力によって、パンの全実体がキリストの御体の全実体に、ブドー酒の全実体がキリストの御血の全実体に、主ご自身にはなんらの変化なしに、変えられるという変化である。実に主はそこで創り出されることも変えられることも増されることもなく、その実体において全きものとしてとどまっている。(1)
聖アンブロジウスはこの奥義をつぎのように説明している。「あなたは、主キリストのみ言葉がいかに有効であるかを知っている。そのみ言葉が、たとえば世界のように存在しなかったものを存在させるに十分な力をもっているとするならば、すでに存在しているものを存続させ、またそれを他のものに変える力を欠いているといえるであろうか」と。(2)
その他の初代の権威ある教父たちも同じ教えを残している。聖アウグスチヌスは、「聖変化の前には、自然によって作られたパンとブドー酒としかないが、聖変化の後には、祝福によって聖別されたキリストの御体と御血があることをわれわれは忠実に信仰する」と言っている。(3) 聖ヨハネ・ダマスクスは、「処女から生まれたもうた主のその御体が聖体において真にその神性に一致させられるのは、その昇りたもうた天から降られるからではなく、かえってパンとブドー酒がキリストの御体と御血に変化させられるからである」と言っている。(4)
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 75, a. 3–4 参照。
(2) S. Ambrosius, lib. 4 de sacram. c 4.
(3) S. Augustins, de cons. dist. 2.
(4) S. Joannes Damascenus, lib. 14 de orth. fide c. 14.
42 全実体変化(Transsubstantiatio)という名称について
それゆえカトリック教会が、この奇しき変化をトリエントの公会議が教えているように「全実体変化」とよんでいるのは大いに理由のあることであり、正当なことである。(1) 実際、自然的発生においてその形相が変えられる場合、当然それは変移(Transformatio)とよばれる。そのように聖体の秘跡では一つのものの全実体が、他のものの全実体に変化するのであるから、この変化を全実体変化(Transsubstantiatio)と教父たちがよんだのは、真にかしこく、ふさわしいことというべきである。
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 4 参照。
43 全実体変化の様式についての好奇的な詮索はいましむべきこと
しかし聖父たちがしばしば繰り返し忠告しているように、どのようにしてそんな変化がおこりうるか、信者たちがあまりの好奇心をもって詮索しないよう注意させねばならない。なぜなら、それはわれわれには把握できないことであり、また自然的な変化においても創造においてもその例を見ないからである。実際それが何であるかは信仰によって認むべきものであって、どのようにしてそうなるのかはあまり好奇心をもって詮索すべきではない。
司牧者はこの奥義の説明において、キリストの御体がどのようにして聖体のパンのごく小さな各片に、全きものとして含まれているかを説明する時にも慎重さを欠いてはならない。できるかぎりこの種の議論は避けるべきであるが、しかしキリスト教的愛徳からそうする義務がある場合は、まず「神にはおできにならないことはない」(ルカ1・37)という言葉によって、信者の心を前もって強めることを忘れてはならない。
44 聖体におけるキリストのご臨在は場所的ではない
つぎに司牧者は、キリストがこの秘跡の中にましますのは、ある場所にあるようにましますのではないことを教えねばならない。物が場所を占めるのは、それが、ある大きさをもっているからである。しかし主キリストが聖体の中にましますというのは、それが大きいとか小さいとかいうように質量について言っているのではなく、実体としていうのである。なぜなら、パンの実体はキリストの実体に変化したのであって、その大きさ、あるいは質量に変化したのではないからである。ところで実体が大きな空間におけると同じように小さい空間の中に含まれうることは、だれも疑いえない。たとえば空気の実体または本質というものは、小さな部分においても大きな部分におけると同様に、全き実体である。また容器に入れた水の本質は、河の水の本質と異なるところはない。しかるに主の御体はパンの実体にとって代わるのであるから、主はパンの実体が聖変化前にそこにあったと同じように聖体の中にましますといわなければならない。それゆえ、聖体の質量の大小はここでは問題にならないのである。(1)
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 76, a. 3-6.
45 パンとブドー酒の偶有(形色 accidentia)は依存するなんらの主体ももたないこと
ここで聖体の秘跡の第三の崇高かつ感嘆すべきことについてのべよう。それは先の二つのことを説明したいま、容易にとり扱いうる問題であるが、パンとブドー酒との形色(species)が、なんらの主体からも支えられずにそこに残っているということである。先述したようにこの秘跡の中には、パンとブドー酒の実体は全く何も残らず、主の御体と御血が実際に臨在しているのであるが、だからといって残っている偶有(形色)がキリストの御体と御血に内在(inhaerere)するということはありえない。したがってすべての自然の法則を越えて、これらの偶有(形色)は、なんら他の実体から支えられずに存在しているということになる。これがカトリック教会の連綿とした確固たる教えであり、(1) それはまた、聖体にはパンとブドー酒の実体はもはや何もとどまっていないということを立証するために前にあげた証人たちの権威からしても容易に確認できる。(2)
訳注
(1) Conc. Constant., sess. 8 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 75, a. 2; q. 77, a. 1-2 参照。
46 キリストはなぜパンとブドー酒形色のもとにご自分を与えたもうのか
しかしこれらの煩瑣な問題はさておいて、むしろこの感ずべき秘跡の御稜威をあがめたたえ、そしてこの聖なる奥義をパンとブドー酒との形色のもとに授けるように定めたもうた神の至聖な御摂理を賛美することほど信者たちの信心のたすけとなることはない。人間の肉を食し血を飲んで身を養うということは全人類にとってきわめて忌むべきことであるので、主は賢明にもそのあがむべき御体と御血とをわれわれが普通、日々の糧として食べるパンとブドー酒の形色のもとに与えたもうたのである。これに加えて、他の二つの利益が見られる。その第一は、われわれがキリストの御体を本来の形のままで食べるのを見る未信者からの、容易に避け難い、中傷的な非難から保護されるということである。その第二は、主の御体と御血とを拝領はしても、実際にそこでおこることを感覚で捉えることのできないわれわれの信仰を増大するための有力な方法となるということである。聖グレゴリウスの言葉にも「理性が証明するところにはもはや功徳はない」とあるとおりである。(1)
以上のべたこれらのことは、大きな注意をもって、また聞く人の知能とその環境とを考慮して説明されねばならない。(2)
訳注
(1) S. Gregorius, homil. 26 in Evangelia.
(2) Sum. Theol., III, q. 74, a. 1 et q. 75, a. 1 参照。
47 聖体の効力と効果について
聖体の秘跡の効力と効果とに関する知識が無益であったり、あるいは不必要であったりする信者はだれもいないはずである。また、これまでの説明もみな、司牧者が信者たちに聖体の有益さをよりよく教えうるようにとの目的からだったのである。
しかし聖体の無限の効果や利益は、どんな言葉をもってしても説明しつくすことは不可能であるから、司牧者は、この聖なる奥義に含まれるすべての恵みの偉大さと豊かさを示すに足る、一つあるいは二つの主な考察にかぎらざるをえないであろう。そのため、つぎのようにすることもできよう。すべての秘跡の本質と効力とを説明した後、聖体を泉に、他の秘跡をその流れにたとえることである。(1) 聖体は実際に、また必然的にすべての恩寵の泉である。それは聖体が、すべての天来の恩寵と賜物の源そのもの、すべての秘跡の制定者にましますキリストを感ずべき方法によってその中に含み、他の秘跡がもっている善にして完全なるものはすべて、そこからあたかも泉のように流れ広がっているからである。こうして、聖体は神の恩寵の泉であるという考えから、この秘跡によって伝達される賜物の広大さが容易に理解される。(2)
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 3.
(2) S. Joannes Chrysostomus, homil. 84 in Joann.; Sum. Theol., III, q. 79 参照。
48 食物が体に与えるものを聖体は霊魂に与える
また、聖体の象徴であるパンとブドー酒の性質を吟味することによって、右にあげた目的を達することができる。すなわちパンとブドー酒とが体に生ずるあらゆる効果を、聖体は霊魂の救済と幸福のために、しかもよりすぐれた方法で、より完全にもたらす。なぜなら聖体はパンやブドー酒のようにわれわれの実体に変わるのではなく、かえってわれわれ自身がいわば聖体の性質に変えられるからである。したがって聖アウグスチヌスのつぎの言葉はまさにここに適用することができる。「私は大人の食物である。成長しなさい。そして私を食べなさい。あなたの肉体の食物のように私をあなたに変えるのではなく、かえって、あなたは私に変えられるであろう」と。(1)
訳注
(1) S. Augustinus, lib. 7, conf. cap. 10 参照。