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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 61-72 | 二つの形色による聖体拝領、聖体の秘跡の執行者、聖体は新約の犠牲

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

61 初代教会ではひんぱんな聖体拝領が行なわれていた

 使徒行録によると、昔、信者たちが毎日聖体拝領をした時代があったことがわかる(使2・42)。当時キリスト教を信奉したものはみな、熱烈な真の愛徳にもえ、祈りや他の信心業に絶えず専念し、毎日、主の御体の聖なる奥義に近づく心構えもっていたのである。その後、この慣例が衰えたように思われたので、教皇であり殉教者である聖アナクレトゥスは、部分的にそれを復活させた。彼は、ミサのいけにえにあずかるすべての聖職者は聖体を拝領すべきことを規定し、それは使徒たちの制定に従うことであると教えた。(1) また、教会には、長い間、つぎのようなならわしがあった。すなわち司祭は、そのいけにえを終えた後、自分で聖体を拝領し、それから人人のほうを向いて信者たちに「兄弟たちよ、聖体拝領に来なさい」といって信者たちを聖さんに招いていた。そして準備していたものは深い信心をもって聖体を拝領していたのである。(2)

 しかし、やがて愛および信心の熱が次第にさめ、信者たちが聖体に近づくのが稀になってきたので、教皇ファビアヌスは、すべての信者に、少なくとも年に三度、主のご降誕、ご復活、聖霊降臨に聖体を拝領すべきことを規定したのであった。(3) この規定は後に多くの公会議、とくに第一アガトの宗教会識において確認されている。(4) しかし、ついにはこの聖にして救霊をもたらす規定を遵守しないばかりか、何年間も聖体拝領を延ばすほどの事態となったので、ラテラン公会議は、すべての信者は年に少なくとも一度聖体を拝領すべきこと、それを怠るものは、信者として認めないことを規定したのである。(5)

訳注
(1) S. Anacletus, de const. dist. 4 cap. 10 参照。
(2) S. Gregorius, lib. 2 dial. c. 23 参照。
(3) S. Fabianus, epist. 3 ad Hilar. 参照。
(4) Conc. Agathense, cap. 18 参照。
(5) Conc. Lateran., can. 21; Conc. Trid., sess. 13, can. 9 参照。

62 幼児に聖体を授けてはならない

 神と教会との権威によるこの掟がすべての信者に及ぶとはいっても、年齢の不足から、まだ理性の働きをもたないものは除外される。それは、彼らが聖体拝領に必要な信心、敬神の念をもつことができないからである。また幼児の聖体拝領は聖体の秘跡の制定に反するように思われる。主キリストは聖体を制定されるにあたって「とって食べよ」(マテオ26・26)とおおせられたが、しかし、とって食べるということが幼児にできないことは明らかである。確かにある地方では、幼児に聖体を授けるならわしがあったが、しかし右にのべた理由によって、あるいはキリスト教の信心に全く合致した他の動機から教会がこのならわしをなくしてから年久しくなる。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 21 cap. 4 et can. 4, Sum. Theol., III, q. 80 a, 9; 〔旧〕教会法第854条§1 参照。

63 何歳ころに聖体を授けるか

 何歳のころ子供に聖体を授けるかその年齢を決定する最高適任者は両親あるいは子供たちの告白をきく司祭である。子供たちが、このすばらしい秘跡について何らかの知識をもっているか、また、その効果を味わうことができるかどうかを吟味し、尋ねるのは彼らの義務である。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第854条§2~5 参照。

64 精神病患者には時として授けうる

 また現在、信心の念をもちえない精神病者には、決して聖体を授けてはならない。しかしカルタゴの公会議が決定しているように精神錯乱におちいる以前に、信心や宗教心を示したとすれば、嘔吐、あるいは不相応な行ないその他の不都合がおこる心配がないかぎり、臨終の時に聖体を授けることができる。(1)

訳注
(1) Conc. Carth., sess. 4, 参照。

65 二つの形色による聖体拝領

 聖体拝領の仕方に関しては、二つの形色による聖体拝領はミサのいけにえを捧げる司祭を除いて、だれも教会の認可なしに授かることはできないという教会の掟があることを教えねばならない。トリエントの公会議が説明しているように、主キリストは最後の晩さんにおいてパンとブドー酒の二つの形色のもとにこの聖い秘跡を制定され使徒たちにそれを与えられたとはいえ、しかし、そこからしてすべての信者に二つの形色においてこの聖なる奥義を授けねばならないというふうに定めたもうたとは結論づけられない。なぜなら、主御自ら、しばしばつぎのようなみ言葉でただ一つの形色について語っておられるからである。「このパンを食べる人は永遠に生きる。そして、私の与えるパンは世の命のために『わたされる』私の肉である」(ヨハネ6・51)また「このパンを食べる人は永遠に生きる」(ヨハネ6・58)と。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 21, cap. 1-3; Sum. Theol., III, q. 80, a. 12 参照。

66 一つの形色による聖体拝領の理由

 教会が、一つの形色における聖体拝領の慣例をただ承認しただけでなく、その権威をもってこのように決定したのは、そこに多くの、しかもきわめて重大な理由があったからである。まず、主の御血が床にこぼされぬよう最大の注意をはらう必要があったのである。そしてこのことはとくに多数の人々に授ける場合には容易に避けえないことのように思えたからである。第二に、聖体は病人のために保存しておかなければならないが、しかし時間がたつにつれてブドー酒の形色が酸っぱくなる恐れが大いにあるからである。第三に、ブドー酒の味に、あるいはその匂いにさえも耐えられない人々が多くあるということである。それゆえ、霊魂の救かりのために与えられるものが身体の健康を害することのないように教会は賢明にもパンの形色だけで拝領させることを規定したのである。これらすべての理由に加えて、多くの国々ではブドー酒がたやすく見出せず、高い代金を払って遠くから、しかも骨折ってとりよせなければならないという不都合がある。

 最後に、これが最大の理由であるが、キリストは各々の形色のもとに全きものとしてましますのでパンの形色にはその御血からわかれたその御体だけが含まれ、またブドー酒の形色にはその御血だけが含まれていると主張した異端を打破するためであった。すなわちカトリックの信仰の真理をすべての人々の眼におくため、教会は賢明にも単一の形色、パンの形色による聖体拝領を命じたのである。その他、この問題をとりあつかった著作の中に見出される他の理由があるが、司牧者は、必要と思うならば、それらをとりあげることもできよう。

67 聖体の秘跡の執行者

 聖体の秘跡の執行者に関して知らないものはだれもいないであろうが、しかしこの秘跡に関する教義を何も省略することのないよう、聖体の秘跡の執行者についてのべよう。そこで司牧者は、聖体を聖別し、信者に授ける権能は司祭にだけ与えられていることを教えねばならない。信者は司祭の手から聖体を拝領し、奥義を捧げる司祭は自分で拝領するというならわしが常に教会内に守られてきていると、トリエントの公会議は説明している。(1) そして同じ公会議はそのならわしが使徒たちに由来することを示し、とくにあがむべきご自分の御体を捧げ、御手ずから使徒たちに授けられた(マテオ26・26、マルコ14・22)主キリストの感動すべきお手本に基づくものであるから、信心をもって保持せねばならぬと命じている。

 なお教会はあらゆる点でこの聖い秘跡の尊厳さを守るため、それを授ける権能を司祭に制限しただけでなく、重大な必要の場合を除いて、聖職者以外のものに、この秘跡のために用いる聖器、聖布、その他の器具を扱かったり、触れたりすることを規定をもって禁じたのである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 10; Sum. Theol., III, q. 82, a. 1 et 3 参照。

68 不相応な司祭も聖体を聖別しうること

 以上のことは、司祭自身にまた普通の信者にも、この聖体をあるいは捧げ、あるいは授かるものがどれほどの信心と聖性とをもたねばならないかを教えてくれるとはいえ他の秘跡についてすでにのべたことすなわち、その質量と形相とを正確に用いさえするならば、不相応な聖職者によっても有効に授けられるということは、聖体の秘跡についても同様である。なぜなら信仰が教えているとおり、これらすべては執行者の功徳に依存するものではなく、主キリストの権能と御功徳に依存しているからである。(1)

 以上が、秘跡としての聖体について説明すべき事柄である。つぎに犠牲としての聖体を考察することにしよう。それは、司牧者が、トリエントの公会議によって規定されているとおり日曜日およびこの奥義に関して信者にとくに教えねばならないことをわきまえうるためである。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 6 et can. 10; Sum., Theol., III, q. 82, a. 5-9 参照。
(2) Conc., Trid., sess. 22 in princ. 参照。

69 聖体は新約の犠牲である

 聖体はただ、それを善用するものに神の恩寵と愛とを確保させる霊的富の宝庫であるだけでなく、さらにわれわれが神から受けた広大な御慈悲に対する感謝を捧げるための有力な手段でもある。そしてこの犠牲が、ふさわしくかつ合法的に捧げられる場合、どれほど神によみせられ受けいれられるかはつぎのことからわかる。すなわち「あなたは犠牲と供物とを喜ばず」(詩40・7)といわれ、また「あなたは、もう犠牲を好まれない、私が供物をしても、あなたはそれを喜ばれない」(詩51・18)といわれた旧約の犠牲さえ、「主はそのゆかしい香りをかがれた」(創8・21)という聖書の証言どおり神によみせられ受けいれられたとするならば、まして天来の御声が二度も「これは、私が喜びとする愛子である」(マテオ17・5)といわれた御方を捧げる犠牲にわれわれは期待すべきではなかろうか。それゆえ、主任司祭は、信者たちがミサにあずかりながら、注意と信心をもって、この至聖なる犠牲について黙想しうるよう入念にこの奥義について説明すべきである。

70 聖体制定の理由

 まず、聖体は二つの理由から制定されたことを教えるべきであろう。その第一の理由は、われわれの霊的生命を守り保つための霊魂の食物とするためであり(ヨハネ6・35、コリント前10・11)、第二の理由は、われわれの罪を償い、またわれわれの罪によってしばしばひどく侮辱されたもうた天の御父を、御怒りから御慈悲に、きびしさから寛大さに立ち返らせるための犠牲を教会に残すためである。われわれはこのことの前表または象徴を、イスラエル人が犠牲としてまた秘跡として捧げ食していた過越の小羊の中に見出すのである(出12・3-14)。また、ご自身を十字架の祭壇の上で御父に捧げられるにあたって、救い主はこの犠牲以外に、その無辺の愛の、より輝かしい印を与えなかったのである。すなわち主はその翌日、可視的犠牲をもって十字架上で一度捧げられた流血のいけにえが絶えず繰り返され、またその記憶がその無限の効果とともに世の終わりまで毎日、教会を介して、全世界に広げられるようおぼしめされたのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess 22, cap. 1-2 参照。

71 秘跡と犠牲との区別

 しかし、秘跡と犠牲との間には大きな差異がある。秘跡は聖変化によってなされ、犠牲は捧げられることによって犠牲となる。それ故、聖体がチボリウムの中に保存されたり、あるいは病人に運ばれる時には秘跡ではあっても、犠牲ではない。さらに秘跡としての聖体は、この神的いけにえを授かるものにとって功徳の源となり、また前述したすべての利益を得させるが、これに対して犠牲としての聖体は功徳をつませる力だけでなく贖罪の力をもっている。実際、主キリストがそのご苦難においてわれわれのために功徳をつみ贖罪されたように、この犠牲を捧げるものは、それによってわれわれと通じ、主のご苦難の効果にあずかり罪の償いをするのである。

72 いつ新約の犠牲は制定されたか

 この犠牲に関するトリエント公会議の教えはなんらの疑問も残さない。この公会議は、主キリストが最後の晩さんにおいて聖体を制定したもうことを宣言し、それによって真の、そして個有の犠牲が神に捧げられないとか、あるいは捧げるということは主の御体を食するために与えることにほかならないとか主張する人々を破門をもって断罪している。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 22, cap. 1 et can. 1-2 参照。