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ローマ公教要理 秘跡の部 第一章 13-24 | 制定理由、質料と形相、数、制定者と執行者

 秘跡の部 目次

第一章 秘跡一般について

13 秘跡の示す現在のものは一つだけではない

 しかし、これら三つの一般的な意味のほかに、秘跡はまたしばしば多くの現在のことを表わし、示すことがある。たとえば、至聖なる聖体の秘跡に思いをいたすものは、容易にそのことを確認することができよう。実にこの秘跡は、イエズス・キリストの真の御体と御血、またこの聖なる奥義に汚れなしにあずかるものがこうむる恩寵の実在を表わしている。(1) 司牧者たちは、信者たちに、新約の秘跡の中にはどれほどの奥義的奇跡と神の権能が隠されているか、そこからして最も敬虔な信心の念をもって取り扱い、かつ授からねばならないことを納得させるための説明を、以上のべたことの中に見いだすことは容易であろう。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 3 参照。

14 秘跡の制定された理由について

 信者たちに秘跡を正しく利用させるためには、何よりもまず秘跡の制定された動機を入念に説明したほうが効果的であろう。これらの動機は多様である。その第一は、人間の本来の弱さである。人間は本来、霊的かつ純粋に理性的なものは感覚的なものによってしか知りえない。それゆえ、万物の最高の細工者にまします神は御力をもってなされる隠されたものをより容易に理解させるため、われわれの感覚に触れるあるしるしを通じて、その御働きを表わそうと、その英知をもって計画されたのである。金口聖ヨハネはそのことを「人が身体をもっていなかったとしても、善そのものがむきだしに、何の覆いもなしに彼に提供されることはなかったであろう。かえって霊魂は身体に合わされているのであるから不可視的な善を理解するために可視的なものの助けを必要とするのである」とのべている。(1)

 第二の動機は、われわれが約束されたことを容易に信じようとしない傾向をもっているからである。それゆえ、神は世のはじめから果たそうと望まれることをみ言葉によってしきりに指示され、時として、約束されたことが余りに大きすぎ〔て〕信じにくいと思われる時には幾度となく奇跡の性格をおびたあるしるしをみ言葉に付加されたりしたもうた。たとえば神は、へブライ人救出のためにモイゼを遣わしたもうた時、モイゼが、命じたもう神の援けを疑い、自分の力以上の重荷として恐れぬよう、また人民が神のみ言葉および神託に対する信仰を拒むことのないように(出3・10~11)、多種多様のしるしをもって御約束を確証された(出4・12)。それゆえ、神が旧約においてしるしによって大いなる御約束を確証したもうたと同様に、新約において救い主キリストはわれわれに罪のゆるし、天の恩寵および聖霊の派遣を約束されるにあたってご自分の契約の保証として、またその御約束に対するご自分の忠実さを決して疑いえないように、われわれの視覚や他の感覚に訴えるしるしを定めたもうたのである。

 第三に聖アンブロジウスがのべているように、秘跡は薬としてとくに聖福音中のよきサマリア人の薬のように霊魂の健康をあるいは回復させあるいは保持するものとして準備されているのである。(2) イエズス・キリストのご受難から生ずる力、すなわち十字架の祭壇上においてわれわれのために獲得された恩寵は、秘跡をといとして霊魂の中にそそぎこまれねばならない。それによらずしては、だれも救霊の望みはもてない。それゆえ、いとも寛大な主は、われわれ一人一人が信心と信仰の念をもって秘跡に近づくかぎり、ご受難の効果を実際にこうむることを疑いなく信じ得るよう、み言葉と御約束とをもって秘跡を保証し教会に残したもうた。

 さらに秘跡の制定を必要としたと思われる第四の動機がある。すなわち秘跡は信者たちを他の人々から区別する特徴または表象となる。それはとくに、聖アウグスチヌスがいっているように、真偽を問わず宗教と名のつくものはみなある、しるし、あるいは可視的宣誓(Sacramentum)の契りによって、その信者を結合させていることを思えば肯定できる。(3) それゆえ新約の秘跡は、信者を未信者から区別し、また信者を聖なるきずなをもって互いに結びつけるという二重の効果を生じるのである。

 秘跡制定の第五の動機は、使徒聖パウロの「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いをうる」(ロマ10・10)という言葉の中に見いだされる。われわれは秘跡によって、われわれの信仰を人々に公言し、知らせるのである。たとえば洗礼を受けるにあたってわれわれは、身体を洗う水の力によって、霊魂の霊的浄化が行なわれるという信仰を公に表明する。また秘跡は、われわれの心の中に信仰をひきおこし啓発するだけでなく、聖なる奥義に参与するわれわれは互いに最も固い絆をもって結び合わされた同一の体の肢体であることを想起させ、そこからして相互にもつべき愛の火をかきたてる力をも含んでいる。

 最後に、これはキリスト教的信心にとって大切なことであるが、秘跡はわれわれの心の高慢を抑制し、鎮めそしてわれわれを謙遜の実行へと駆り立てる。実際われわれは、以前に「この世の要素」(ガラチア4・3)に従おうとして無礼にも棄ててかえり見なかったその神に帰属するため、秘跡に用いられるこの世の要素への従属を強いられるのである。

 以上が秘跡の名称、本質、制定について信者に教えねばならぬ主要点である。これらのことを正しく説明したのち、司牧者は各々の秘跡が成り立っている要素、およびその要素の各部分について、また秘跡にともなう儀式や典式について教えなければならない。(4)

訳注
(1) S. Johannes Chrysost., Hom. 83 in Matth.
(2) S. Ambrosius, lib. 5, de Sac. cap. 4 参照。
(3) S. Augustinus, lib. 19, cont. Faust. cap. 11 参照。
(4) Sum. Theol., III, q. 61, a. 1-4 参照。

15 秘跡の質料と形相について

 司牧者はまず、前述した秘跡の定義の中に見られる感覚的なものは、一つのしるしを構成するとはいえ、しかしただ一つのものではないことを説明すべきである。実際、すべての秘跡は、二つのものから成り立っている。その一つは質料となるもので要素とよばれ、他は形相の役を果たし、普通に言葉といわれるものである。これは教父たちの教えるところでありとくに聖アウグスチヌスのつぎの証言は人のよく知るところである。「言葉は要素に合わされ、しかして秘跡が存する」と。(1) したがって感覚的なものという名称は、質料すなわち要素となるもの、たとえば洗礼における水、堅信における聖香油、病人の塗油における聖油のように、目につくもの、また形相となるものすなわち聴覚に捉えられる言葉を指している。このことを聖パウロはつぎのように明白に指摘している。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ(キリストが命をすてられたのは)水をそそぐこととそれにともなう言葉とによって教会を清め聖とするためであった」(エフェゾ5・25-26)と。そしてこの文中に質料と形相とが明白に表わされている。(2)

訳注
(1) S. Augustinus, in Joan. tract, 80.
(2) Sum. Theol., III, q. 60, a. 4-5 参照。

16 なぜ言葉が必要か

 質料に言葉が加えられるのは、そこでなされる事柄の意味をより明確に、またよりわかりやすくするためである。すべてのしるしの中で、最もよく意味を表わすものはまさにこの言葉であり、もし秘跡からそれを除去するとすれば、質料が何を意味し指示しているのかを推測することは非常に困難となるであろう。洗礼を例にとってみよう。水はものを洗い清めるだけでなく冷やす力ももっており、この二つの効果を等しく意味しうるのである。それゆえもし水をそそぐ時、言葉を加えなかったならば、あるいは推測によって判断できるかもしれないが、しかし確実なことを断言できる人はだれもいないであろう。これに反し、言葉を加えるならば直ちにそれが浄化を意味し効果づけていることがわかる。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 60, a. 6-8 参照。

17 新約の秘跡のすぐれていること

 この点においてわれわれの秘跡は旧約の秘跡にはるかにまさっている。われわれが知るかぎりにおいては、旧約の秘跡は授与にあたって定まった形相を用いず、そのため不確実で漠然としたものとなっていた。これに反してわれわれの秘跡は、もしそれを離すならば秘跡として成立しないというふうに規定された言葉の形相をもっており、そのためにきわめて明確であり、なんら疑惑の余地を残さない。以上が秘跡の本質および本体を構成する部分であり、各々の秘跡は必然的にこれらから成り立っている。

18 秘跡における儀式の性格と効力について

 秘跡の質料と形相には、必要にせまられた場合を除いて、罪なしに省略できぬ儀式がともなう。しかしながらこの儀式は、もしかしてそれが省略されたとしても秘跡の本質には無関係で、秘跡の秘跡たる所以をなんら損なうものではない。おごそかな儀式をもって秘跡を授けるということは初代教会からこのかた常に守られたならわしである。まず聖なるものを聖として取り扱うために、聖なる奥義に宗教上の特別の祭儀をともなわせることは、きわめて当然のことである。また儀式は、秘跡によってなされることをよりよく表明し、いわば眼前におき、信者たちの心にその聖性をより深く印象づけてくれる。最後に、これらの儀式は、それにあずかり熱心に注意し見守る人友の心を、天上のものの瞑想へと高め、彼らの信仰と愛とを駆り立てるのではなかろうか。それゆえ、信者たちが、各々の秘跡の授与にともなう儀式の効力を知り、悟りうるよう、いかほどの入念な配慮を用いねばならないだろうか。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, cap. 11; sess. 22, cap. 4-5 参照。

19 秘跡の数について

 つぎに秘跡の数について述べよう。この説明は信者たちに大きな益をもたらす。信者たちは、神がわれわれの救霊と至福の生命のために多くの援けを準備したもうたことを知れば知るほど、大いなる信心の中に、全力をあげてわれわれに対する神の格別なご好意を認め、たたえに至るであろうから。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 65, a. 1-4 参照。

20 七つという数について

 カトリック教会の秘跡は聖書によって証明され、諸教父の伝承によって伝えられ、そして公会議によって決議されているとおり七つある。(1) しかしなぜ、七つであってより多くも少なくもないのであろうか。それについては、自然的生命と霊的生命との間にある類似点から推してそれらしい理由をあげることができる。人間が生活し、生命を保持し、自分自身および社会のために有効に用いるには、七つのことが必要である。すなわち生まれ、成長し、身を養い、もし病気にかかったならば癒され、衰弱したならばその力を回復する必要がある。つぎに社会的見地からは、権能と統治とをもって治める頭が必要であり、最後に子女を生むことによって、自己および人類を永続させねばならない。さて、これらすべてが神によって生かされる霊魂の生命に対応することは十分明らかであり、そこからして容易に秘跡の数が論拠づけられると思う。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 1参照。

21 七つの秘跡について

 第一には、われわれをイエズス・キリストのものとして生まれさせ、他の秘跡の門戸ともなる(ヨハネ3・5、チト3・5)洗礼がある。つぎに神の恩寵の増加と強化をもたらす堅信がある。聖アウグスチヌスの証言によると主イエズス・キリストが「あなたたちは、上からの能力を着せられるまで、町にとどまりなさい」(ルカ24・49、使1・8)とおおせられたのはすでに受洗していた使徒たちに対してであった。(1) ついで、真に天上の食物として、われわれの霊魂を養い、ささえる聖体がある。救い主は聖体について「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲物であるから」(ヨハネ6・55)とのたもうた。

 第四に霊魂が罪によって傷つけられた場合に健康を回復せしめる悔俊がある(ヨハネ20・22-23)。さらに罪のあとを取り去り、霊魂の力を更新する病人の塗油がある。使徒聖ヤコボは、この秘跡についてのべ「そして信仰による祈りは病気の人を救う、主は彼を立たせ、もし罪を犯しているなら、それをゆるしてくださるであろう」(ヤコボ5・15)といっている。つぎに教会において永続する秘跡を公に執行しまた他のすべての聖職を遂行する権能を与える叙階がある。(使13・2-3、チモテオ前4・14、チモテオ後1・6)。最後に男女の合法的かつ聖なる結合によって、神に対して尽くすべき礼拝と人類の保存とのために子女を挙げさせ、キリスト教的に育てさせる婚姻がある(エフェゾ5・31-33)。

訳注
(1) S. Augustinus, ep. 108 参照。

22 各々の秘跡の尊厳さと必要性は同一ではない

 しかし注意すべきことは、秘跡はみな、神的な感嘆すべき力をもっているとはいえ、すべての秘跡が同じ程度に必要ではなく、また同じ尊厳さ、同じ意義をもつものでもないということである。(1) それらのうち三つは、同じ理由からではないが、他にまして必要である。洗礼は例外なしにすべての人々に絶対に必要である。救い主はそれをつぎのみ言葉をもって宣言したもうた。「まことにまことに私はいう、水と霊とによって生まれない人は、天の国にははいれない」(ヨハネ3・5)と。悔俊は、ただ洗礼後に大罪を犯した人にとって、正しい悔悛なしには永遠の罰を避けえないところから必要なものである。最後に叙階であるが、それは信者各自にとってでなく、教会全体にとって確かに必要である(ルカ13・8、黙2・5)。しかし秘跡の尊厳さからいうと、聖体はその含んでいる奥義の数、神聖さおよび偉大さにおいて、他の秘跡にはるかにまさっている。以上のことはとくに各秘跡に関する説明によってよりよく理解されるであろう。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 3-4; Sum. Theol., III, q. 63, a. 3-4 参照。

23 秘跡の制定者について

 つぎにわれわれはだれからこれらの神聖な、神的な奥義を受けたのかを見ることにしよう。なぜなら与えるものの尊厳さと偉大さは、与えられる恩寵の卓越性にいっそうの光輝を添えるものだからである。ところでこの問題は何もむずかしい説明を必要としない。われわれを義としたもうのは神であり、そして秘跡はわれわれに義を伝達するための霊妙な手段にほかならない。そこからしてキリストを義化および秘跡の制定者なる神と認めるのは当然ではなかろうか。またこれらの秘跡は、霊魂の奥深く働く性質と効力をもっている。このように精神や心の中にまで進入することは、神御一人の権能である。それゆえ、内的に働きたもうのは神であるとの確固としたゆるぎない信仰からして神ご自身、キリストによって秘跡を制定したもうたというべきである。聖ヨハネはそのあかしをキリストご自身から受けたとつぎのようにいっている。「水によって洗礼を授けるようにと私をつかわされた方が、『あなたは、その人の上に霊が下り、そしてとどまるのを見る。それこそ聖霊で洗礼を授ける方である』」(ヨハネ1・33)と。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 1; Sum. Theol., III, q. 64, a. 1-2 参照。

24 秘跡の執行者について

 しかし、秘跡の真の制定者であり、管理者である神は秘跡が天使たちによってではなく、むしろ人を通じて教会内に執行されることを欲したもうた。また教父たちの碓固たる伝承も秘跡を執行するためには、質量や形相と共にその執行者の行為が同じく必要であることを確証している。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 64, a. 3, 4, 7 参照。