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ローマ公教要理 秘跡の部 第五章 13-24 | 悔悛の質量・形相、悔悛なしに罪はゆるされない

 秘跡の部 目次

第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕

13 悔悛の質料について

 告解の秘跡の質料は何にもまして信者たちが知っておかねばならない事柄である。そのため、まず質料という点においてこの秘跡が他の秘跡と非常に異なっていることを教えねばならない。すなわち他の秘跡の質料は自然的または人為的なものであるが、トリエントの公会議がいっているように、この秘跡の「準質料(quasi-materia)」は告解者の行為すなわち痛悔、告白、償いである。これらの行為は秘跡の十全さと罪の完全なゆるしのために、神のお定めによって必要とされ、その意味で悔悛の部分といわれる。(1) 公会議がこれらの行為を「準質料」とよんでいるのは、それらが真の質料でないというのではなく、むしろ洗礼における水や堅信における聖香油のように外的に用いられる種類の質料ではないからである。ある人は、罪自体を告解の秘跡の質料と言っているが、それもよく考えてみると、いま言ったことに反しているとは思われない。火は木があってはじめて燃えるので、われわれは木は火の質料であると言っているが、そのような意味で告解によって消される罪もこの秘跡の質料といわれるのである。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 3 et can. 4 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 84, a. 2 参照。

14 悔悛の形相について

 司牧者はまたこの秘跡の形相に関する説明もないがしろにしてはならない。なぜなら信者たちは形相を知ることによって最大の信心をもってこの秘跡の恩寵を受けるよう励まされるからである。さてその形相は、「私はあなたたちをゆるす」であるが、この言葉は、「まことに私はいう、あなたたちが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上でとくところはみな天でもとかれるだろう」(マテオ18・18)というみ言葉に基づいているだけでなく、それはまた、使徒たちによって伝えられた主キリストのみ教えによるものである。また秘跡はそれらが生ずることを意味するものであるが、「私はあなたをゆるす」という言葉はこの秘跡の授与によって罪がゆるされることを示しているところからして、それが悔悛の完全な形相であることは明白なことである。罪はわれわれの霊魂をつなぎとめるきずなのようなもので(イザヤ5・18)、それを打ち砕くのが告解の秘跡である。実際、告白の望みを伴った熱い完全な痛悔によって、すでに神からその罪のゆるしを得た告解者に向かって、この言葉をのべる司祭は、真実のことを言っているにすぎない。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 3, Sum. Theol., III, q. 84, a, 3 参照。

15 形相に付加される祈り

 この言葉のほかに、多くの祈りが加えられる。それは秘跡の形相としては必要ではないが、秘跡の本質や有効性が、この秘跡を授かるもののあやまちによって妨げられるのを防ぐためのものである。

16 新約と旧約の司祭の聖役について

 それゆえ罪人は、教会の司祭たちにこれはどの権能をお与えになった神にかぎりない感謝をささぐべきであろう。かつての旧約時代における司祭は癩病者がいやされたことを証言するだけであったが(レビ13・9)、今日の教会における司祭には、赦罪の宣告の権能だけでなく、実際に神の聖役者として、恩寵と義の主(ロマ8・33)かつ作為者にまします神が施したもう罪のゆるしを実際に与える権能が授けられているのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 6 参照。

17 告白について

 信者たちはまた、この秘跡のために規定された定式に正確に従わねばならない。それによって彼らはこの秘跡によって得たこと、とくに善良な父親と仲直りした子供たちのように、いつくしみ深い主と和解させられたことをより深く心に刻みつけることだろうし、また同時に欲するならば、みながそれを欲すべきであるが、かくも広大な恩寵に対する彼らの感謝と記憶とを表わすために何をなすべきかをより容易に悟るであろう。

 というのは、改心する罪人は、謙そんと自己卑下の精神をもって司祭の足もとにひざまずく。それはこのように自己卑下することによって、彼が嘆いているすべての罪の源であり原理である高慢を根から引き抜くべきことを(集10・15)〔(※)〕容易に認めさせるためであり、また他方、彼に対する合法的な裁判者である司祭の中に主キリストご自身とその権能とをあがめさせるためである。なぜなら司祭は他の秘跡におけると同様に、告解の秘跡の授与においてもキリストの任を果たしているからである。

 ついで悔悛者は最も大きくまた最も厳しい罰に値すると思う罪を、つぎつぎに告白し、罪のゆるしを願う。これらの実行がずっと古くからあったことは聖ディオニシウスの中に最も明白な証言を見いだすことができる。(1)

訳注
(1) S. Dionysius Areop., in epist. ad Demoph. 参照。

当サイト管理人注
(※) 『ローマ公教要理 秘跡の部』原文では「(伝10・15)」と書かれているが、集会の書10・15(主は、高慢な人の根をぬき、その代わりに、謙虚な人を植えた。)に訂正した。

18 悔悛の秘跡の効果について

 しかし、告解の秘跡から引き出される利益の大きさについてしばしば説明することほど、信者たちにとって最も有益であり、また彼らを告解の秘跡へとかり立てるものはない。その時、彼らは、告解とは根は苦いが、その果実は甘味な木のようだと悟るであろう。すなわち告解は神の恩寵の中にわれわれを立ち返らせ、親密な友情によって神と一致させる力をもっている。(1) そしてこの和解は信仰と信心とをもって告解の秘跡を授かる人々の中に非常に大きな良心の平安と静けさ、深い霊的喜びを生ずるのが常である。

 なお、ただ一度、二度といわずに何度でも告解の秘跡によってゆるされえないほどの重い極悪な罪は決してない。神は預言者を通じてこうおおせられている。「もし悪人が犯した罪から身をひき、私の掟を守り、正義と公正とを実行するなら、その人は生きのび、再び死ぬことはない。彼が犯した罪はすべて忘れられその行なった正義のために生きのびる」(エゼキエル18・21-22)と。また聖ヨハネは、「もし自分の罪を告白するなら、真実で正しいお方である神はわれわれの罪をゆるし、すべての不義から清めてくださるであろう」(ヨハネ一書1・9)と言い、その少し後で「もし罪を犯す人があるなら(どんな種類の罪も例外なく)われわれは御父の御前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。彼は、われわれの罪のためのとりなしのいけにえである。いや、ただわれわれの罪のためだけではなく、全世界の罪のためである」(ヨハネ一書2・1-2)とつけ加えている。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, can. 3 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 86, a. 1; q. 84, a. 10 参照。

19 ある罪がゆるされないといわれる理由

 聖書を見ると(マカベオ後9・13、ヘブライ12・17、サムエル前15・24)ある人々は熱心にそれを求めたにもかかわらず、神から御慈悲をこうむることができなかったことが書いてある。しかしそれは彼らがその罪を真実に真心から痛悔しなかったからだと解釈すべきである。であるから、聖書あるいは教父たちの著作の中に、ある罪はゆるされえない(マテオ12・31-32)と断言するような章句があるならば、それはこれらの罪のゆるしはきわめて困難であるというふうに理解すべきである。たえとばある病気は、病人がそれをいやすことのできる薬を嫌がるところから、不治であるといわれる。それと同様にある種の罪はその救いの良薬である神の恩寵をしりぞけるところから、消されもゆるされもしないのである。この意味で聖アウグスチヌスはつぎのように言っている。「キリストの恩寵によって神を認めた人がその兄弟愛を傷つけ、また烈しい妬みのために恩寵そのものに反抗する時、その人はたとえ良心の苛責によってその過ちを認め、告白することを余議なくされたとしても、へりくだってゆるしを求めることのできないほどの大罪を犯す」と。(1)

訳注
(1) S. Augustinus, sermo 1 de verbis Domini, et epist. 50 ad Bonif.

20 悔悛なしに罪はゆるされない

 しかし、悔悛に話をもどすと、罪をゆるすという力は悔悛に独特のものであり、他の手段では罪のゆるしを得ることも、それを希望することさえもできない。(1) 「私は言う、そうではない、あなたたちも悔い改めないなら、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13・3)と主はおおせられた。このみ言葉は、死をもたらす大罪についていわれているが、しかし小罪とよばれる軽い罪もまたある種の悔悛を必要とする。聖アウグスチヌスは、「教会において小罪について。毎日なされるある種の悔悛は、もしこれらの罪が悔悛なしにゆるされうるのであれば全く空しいものであろう」と言っている。(2)

訳注
(1) ここでいう悔悛とはとくに徳としての悔悛についてである。すなわち悔悛の秘跡によらずしては、罪は決してゆるされないというのではない。
(2) S. Augustinus, lib. 50; epist. ench., cap. 74.

21 悔悛の構成部分について

 しかし、ある程度の行動を伴う事柄については、一般的な説明だけでは不十分であるから、司牧者は信者たちに悔悛を真の、有益なものとして把握させるに必要な事柄をくわしく説明すべきである。さてこの秘跡の特徴は、すべての秘跡に共通である質料と形相のほかに、前述したように悔悛を全きものかつ十全なものとする部分、すなわち痛悔、告白、償いを含むということである。それに関して金口聖ヨハネは、「悔悛は罪人にすべてをすすんで忍ぶように強いる。痛悔をその心に、告白をその唇に、全きへりくだりあるいは実を結ぶ償いをその業の中にもたせるのである」と言っている。(1) ところでこれらの部分は一つのものを全体として構成するために必要な部分である。すなわち人問の体が、手、足、目などの多くの肢体によって構成されそれらの一つを欠いても不完全に思え、一つとして欠けていない時はじめて完全に見えるように、悔悛においては、罪人を義化する痛悔と告白とがその本質を形成するために十分であるとはいえ、しかし同時に第三の部分、すなわち償いを伴わないと必然的にその完全さに欠けるところがあるというふうに、これら三つの部分から構成されているのである。それゆえこれら三つの部分は、痛悔は告白し償いを果たす意志と決心とを含み、痛悔と償いをする意志とは告白を含み、また償いは、他の二つのものの結果であるというふうに、互いに結び合わされている。

訳注
(1) S. Joannes Chrysostomus, homil. 11 de poenitentia.

22 これらの部分の結びつきについて

 これら三つの部分が必要なわけは、罪が、思い、言葉、行ないの三つによって神に対して犯されるからである。すなわち教会の鍵の権能に服して神の御怒りを和らげ罪のゆるしを得るために、その至聖なるみいつを冒涜するに用いたと同じものを用いるということは、最もなことである。

 しかし、これに関してはもう一つの理由をあげることができる。悔悛は、罪を犯した罪人が提示し背かれた神が決定される罪に対する一種の補償である。それゆえ、告白者は痛悔に伴う補償の意志をもたねばならず、また罪の重さに応じた罰を定める、神の代理者たる司祭の判断に従わねばならない。そこに、告白と償いの性格と必要性が見られる。

23 ここでいう痛悔とは何か

 これら各部分の本質や特性を信者たちに明瞭に知らせねばならないのであるが、まず痛悔からはじめ、注意して説明すべきである。なぜなら霊魂は、過去の罪を思い出す時、あるいは新しく罪を犯したような場合、常に痛悔の念をおこさねばならないからである。(1)

 トリエント公会議の教父たちは痛悔をつぎのように定義している。「痛悔とは魂の悲しみであり、将来もはや罪を犯さないとの堅い決心をもって犯した罪をいみ嫌うことである」と。(2) さらに少し後で、痛悔の心の動きについて「かようにしてこれ(心の動き)は、神の御慈悲に対する信頼と告解の秘跡をよく受けるために必要なすべてのことをしようという意思を伴う場合、罪の赦免を準備するのである」とつけ加えている。(3)  この定義からして、信者たちは、痛悔の本質がただ罪を断つとか、あるいは新しい生活をおくる決心をするとか、あるいはすでにそのような生活をしはじめるということにあるのではなく、とくに過去の悪い生活を憎み、そして償いを果たすことにあることを悟るであろう。このことは、聖書の中にしばしば吐露されている聖父たちの嘆きによっても確認される。ダヴィドは「私はため息につかれ、夜ごとに床はしめり、寝床は涙でぬれる」(詩6・7)と歌い、また「主は私のすすり泣きをきかれた」(詩6・9)と言っている。さらにイザヤは「私は御身のみ前に、私の魂を苦しめつつ、私のすべての年を思い返そう」(イザヤ38・15)と叫んでいる。これらの言葉、および他の多くの同様な言葉は、罪に対する憎悪と以前の生活に対する嫌悪の明らかな表現である。

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 4, a. 1-2 参照。
(2) Conc. Trid., sess. 14, cap. 4.
(3) Conc. Trid., ibid.

24 公会議の教父たちか悲しみ(dolor)とよんでいるわけ

 痛悔が悲しみであるという時、肉体の目に見える悲しみを考えないよう、信者たちに注意させねばならない。なぜなら痛悔は意志の行為だからである。聖アウグスチヌスは、悲しみは痛悔に伴なうものであるが悔悛ではない、と告げている。(1) 公会議の教父たちは、罪に対する憎悪また嫌悪を表わすために「悲しみ」という言葉を用いているが、それはあるいはダヴィドが「いつまで私の魂をもだえさせ、私の心を昼となく夜となく悲しめられるのか」(詩13・3)と叫んでいるように、聖書がそのとおりに使用しているからであり、あるいはまた痛悔が情欲の力をやどす魂の下層部分に悲しみを生せしめるからである。それゆえ、悲しみを生じ、また痛悔者に彼らの抱いている悲しみを表わすために、その衣服まで変えさせていた痛悔を悲しみであると定義したのは不当なことではない。このことについて主は聖マテオ福音書中でつぎのように言われた。「のろわれよ、コロザイン、のろわれよ、ベトサイダ、おまえたちの中で行なった奇跡を、チロとシドンとで行なっていたら、彼はずっと前から、荒布を着、灰をかぶってくい改めたことだろう」(マテオ11・21)と。(2)

訳注
(1) S. Augustinus, homil. 50 参照。
(2) Sum. Theol., suppl., q. 1, a. 1-3 参照。