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ローマ公教要理 秘跡の部 第七章 25-34 | 司祭の聖職について、ローマの司教は最高の司教である、叙階の授与者、叙階の効果

 秘跡の部 目次

第七章 叙階の秘跡

25 司祭の聖職について

 司祭の聖職は、その叙階の儀式から明らかなようにミサの聖なる犠牲を神に捧げ、教会の秘跡を授けることである。すなわち司教は司祭を叙階する時、まずその儀式に参列している他のすべての司祭たちと共に、受階者に按手する。ついでストラを受階者の両肩にかけ、その垂れを胸の上で十字形に組合わせる。それは司祭が主キリストの十字架と神の掟の快きくびき(マテオ11・30)を背負い、言葉だけでなく、聖にして正しき生活の模範によってそれを教えうるよう、上からの能力を着せられる(ルカ24・49)ことを表わしている。 この後司教は、受階者の両掌に聖香油を塗り、それからブドー酒のはいったカリスとホスチアをのせたパテナを渡し、「なんじ、神に聖祭を捧げ、かつ生けるもののためにも死せるもののためにもミサを行なう権を受けよ」と唱える。これらの儀式と言葉によって司祭は神と人間の間の代弁者、仲介者としてたてられる。そしてそれが司祭の主要な任務である。

 最後に司牧は再び受階者の頭に按手して、「なんじ聖霊を受けよ、なんじ誰の罪をゆるさんもその罪ゆるされん、なんじ誰の罪をとどめんもその罪とどめられたるなり」と唱え、主がかつて使徒たちに与えられた、罪をゆるしまたとどめる権能(ヨハネ20・23)を新司祭に授ける。以上が司祭の聖階の固有な、そして主要な聖職である。

26 司祭の聖階は一つであっても、司祭間の段階は同一ではない

 司祭の聖階は一つであっても、その位階、権能には種々の段階がある。それらの段階の第一は、いわゆる単に司祭とよばれるもので、その聖職についてはいまのべたとおりである。第二の段階は司教である。司教は各々の教区の頭であって、教会の他の聖職者だけでなく信者をも治め、最大の配慮と注意とをもって彼らの救霊に尽くすためにたてられている。それゆえ、彼らは聖書の中でしばしば「羊の群れの牧者」とよばれており、聖パウロは使徒行録中に読まれる、エフェゾ人への談話の中で、牧者としての彼らの義務と聖職について語っている。(使20・28-30) 同じく使徒たちの頭、聖ペトロも司教の聖職のための聖なるある規則を与えている。すなわちもし司教たちがこの規則にその行為を従わせるよう努めるならば、彼らはよき牧者であり、またそう見られることは疑いないというのである。(ペトロ前5・2-3) 司教は大司祭(Pontifex)ともよばれる。この名称は自分たちの司祭の首位者をこうよんでいた異教徒の言葉に由来している。(1)

 第三の段階は大司教のそれである。彼は何人かの司教の上に立つもので、彼が司教である都市がその地方の「首都」のようにみなされているところからして、首都大司教(Metropolitanus)ともよばれる。それゆえ彼は叙階の点では他の司教とはなんら異ならないが、その品位において普通の司教のそれよりも高く、その権限はより広いのである。第四には総大司教、すなわち初代の最もけんちょな教父たちがある。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 40. a. 5-6 参照。

27 初代教会の総大司教座について

 昔は全教会に、ローマの司教のほかに四人の総大司教だけがあり、しかもそれぞれその地位を異にしていた。たとえばコンスタンチノープルの総大司教は、他のすべてにおくれてこの栄誉を得たとはいえ、帝国の首都であることから他よりも高い地位を占めていた。第二はアレキサンドリアの総大司教座で、その教会は聖ペトロの命のもとに福音史家聖マルコによって建てられたものである。第三は、聖ペトロがその最初の司教座を定めたアンチオキアの総大司教座がある。最後に、第四はエルザレムで、その教会は「主の兄弟」たる聖ヤコボによって治められていた。

28 ローマの司教は神の定めにより最高の司教である

 しかしこれら四人のほかに、カトリック教会は、アレキサンドリアの聖チリルスがエフェゾの公会議において全世界の父にして総大司教とよんでいる、ローマ教皇を常に尊敬してきた。それはローマ教皇が、聖ペトロが生涯の終わりまで座っておられたその聖座についているからである。すなわち教会は、彼に公会議やあるいは他の人定法によってではなく、神ご自身から最高の地位と普遍的裁治権とが与えられていることを認めるのである。それゆえ彼はすべての信者、司教、またあらゆる地位や聖職をもつすべての高位聖職者の父、指導者であって、聖ペトロの後継者、主キリストの地上における真の、そして正統の代理者として、全教会を統治する。であるから司牧者は以上のことを用いて、信者たちに教会の種々の聖階および聖職段階の主な権限と聖務は何であるか、またこの秘跡の授与者はだれであるかを教えねばならない。

29 叙階の授与者について

 この秘跡は司教によって授与される。そのことは聖書の権威によって、また確かな聖伝、すべての教父たち、公会議の決議、教会の慣習によって容易に諭拠づけられる。時として、ある大修院長に上級聖階を除いた下級聖階の授与が認められているが、しかし司教だけがしかも一人で上級聖階を授けうるというふうに、司教に留保されていることは疑いないところである。すなわち副助祭、助祭、司祭は、一人の司教によって叙階される。司教を祝聖するためには、常に教会内に維持されてきた使徒的伝統によって、三人の司教を必要とする。(1)

訳注
(1) 〔〕教会法第951~967条: Sum. Theol., III, q. 83 参照。

サイト管理人注 (1) 現行の教会法においては、第1014条にて「使徒座の免除がない限り、司教の聖別式において司式司教は少なくとも2人の共同聖別司教を加えなければならない」と規定されています(計三人以上の司教)。
旧教会法第954条では「自己を補佐する二人の司教を用いなければならない」と規定されていました(計三人の司教)。

30 受階に必要な心構えについて

 つぎに叙階の秘跡、とくに司祭の聖階を授かるに適した人とはどんな人か、とくに何が、彼らに必要とされるかについてのべよう。それによって、他の聖階を授かるためにそれぞれの聖職と尊厳さとに応じて必要とされるものを容易に確認できるであろう。この叙階の秘跡においてどれほどの慎重さをもたねばならないかは、他の秘跡が授かる本人の聖化と必要のための恩寵を与えるのに対し、聖階を授かるものは、彼らの聖職を通して教会およびすべての人々の救霊に働くための天来の恩寵にあずかるということによってもわかる。そこからしてまたなぜ叙階式が特定の日に、しかも古くからのカトリック教会の慣習によって厳粛な断食がなされるその日に行なわれるかが理解できる。(1) すなわちこのようにして信者たちは、聖なる熱心な祈りによって、かほどの権能を教会の福祉のためにふさわしく行使することのできる、聖なる事柄の役者を神に願うのである。(2)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第1006~1009条参照。
(2) 〔旧〕教会法第973~982条: Sum. Theol., III, q. 39 参照。

31 完全な道徳生活をもつべきこと

 司祭に叙階されるものにとくに要請される第一の資格は、生活および品行の清さである。それは、大罪をもちながら叙階を望み、あるいは叙階されるままにした場合、新たなそして非常に重い罪を犯すからというだけでなく、司祭は他の人々に徳のある、汚れない生活の手本を与うべき人だからである。司牧者は、聖パウロがこのことに関してチトおよびチモテオに命じたことを(チト1・7、チモテオ前3・2)知らせ、また同時に、旧約の律法において神のご命令のもとに祭壇の奉仕から除外されていた身体的欠陥は、福音的法においては霊魂の悪習とみなさるべきであることを教えねばならない。そのためこの秘跡を授かるものはまず、告解の秘跡によって良心を入念に清めるという聖なる慣例が教会内に守られている。

32 司祭に求められる学識について

 第二に司祭は、秘跡の執行と授与に関する知識だけでなく、キリスト教信仰の諸奥義、神の律法の命ずるところを教え、人々に信心と徳を勧め、悪徳から身を退かせることができるよう、聖なる事柄の知識も身につけていなければならない。なぜなら司祭は二つの聖務を果たさねばならないからである。一つは秘跡を執行し授けることであり、他の一つは自分にゆだねられた信者たちに、救霊に必要な事柄や規則を教えることである。預言者マラキアがいっているように「司祭の唇は知識を守らねばならない、人は彼の口に教えを捜し求める。司祭は万軍の主の使いだからである。」(マラキア2・7)

 これらの聖務の第一のものは、平凡な知識でも必要なことは果たせるが、第二の聖務は普通ではない、むしろすぐれた知識を必要とする。もちろんその知識は、すべての司祭に等しく、深奥なことに関する最高のものを求めることはできないが、しかしその責任と聖職の遂行のために十分でなくてはならない。

33 司祭職に不相応な人々について

 子供、狂乱者、白痴は理性の働きを欠いているところからして、この秘跡を授けてはならない。しかし、もし彼らにそれが授けられるようなことがあるならば、彼らの霊魂にはこの秘跡のしるしが印刻されると考えるべきであろう。各々の聖階に必要とされる年令については、トリエント公会議の決議から容易に知ることができる。

 なお奴隷も除外される。すなわち自由にふるまえず他人の権利下にあるものを神の奉仕に任ずべきではない。その他、殺害者や殺人罪人も教会の掟によって斥けられる不適格者である。さらに私生児および合法的な結婚によらずして出生したものもみな同様である。なぜなら聖なる事柄に関係づけられるものには、他人からそれとして侮られ軽んじられるようなことが、何もあってはならないからである。最後に、不具者や、ある著しい身体的奇形をもつものも同様に叙階してはならない。この種の醜さや弱点は、あるいは不快なものであり、あるいは秘跡の授与に妨げになるからである。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第983~991条: Sum. Theol., III, q. 35 参照。

サイト管理人注 原文(日本語訳)を尊重するため、文中の表現はそのままとしております。

34 叙階の効果について

 以上の説明をなした後、司牧者は、またその秘跡の効果についても教えねばならない。すでにのべたように、叙階の秘跡はとくに教会の善と利益とをめざしている。しかしまた、この秘跡を授かるものの霊魂にも、その聖職を正しく秘跡を授けるに能力あるもの、ふさわしいものとする成聖の恩寵を生ずる。それはちょうど洗礼の恩寵によって他の秘跡を授かるにふさわしいものとされるのと同じである。

 なお、この秘跡が与えるいま一つの恩寵がある。すなわち至聖なる聖体の秘跡に関する特別の権能がそれである。(1) その権能は司祭において十全かつ完全なものであり、彼だけが主の御体と御血とを聖別することができる。これに反してそれ以下の聖階においては、その聖職によって祭壇の秘跡に近づく度合に応じてその権能の範囲も異なっている。この権能はまた霊的しるしともよばれるが、それは叙階されたものは、霊魂に刻まれたある内的なしるし(・・・)によって他の信者たちから区別され、神への奉仕に任ぜられるからである。使徒聖パウロはチモテオに、つぎの言葉を書き送りながら、このことをいおうとしているように思われる。「預言によって、また長老たちの按手によって受けたあなたの恩寵をないがしろにするな」(チモテオ前4・14)と。さらに「だから私の按手によってあなたのうちにある、神の恩寵を再びもやすように勧める」(チモテオ後1・6)と。

 以上、叙階の秘跡について大体の説明をした。すなわちここには司牧者が信者たちを教えキリスト教的信心にしつけるための方法を提供するにたる教理の主要点だけをのべたのである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 35 参照。

編者注
一九七二年八月十五日、パウロ六世教皇は、使徒書簡「ミニステリア・クエダム」で剃髪式・下級叙階・副助祭の制度を廃止し、新たに教会共同体奉仕のため「宣教奉仕者」と「教会奉仕者」の二つの役務を定められた。

MINISTERIA QUAEDAM(バチカン公式サイト掲載文書へのリンク)