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ローマ公教要理 秘跡の部 第八章 13-24 | 婚姻する理由、モイゼの律法による婚姻との違い、離婚による非解消性、婚姻における忠実

 秘跡の部 目次

第八章 婚姻の秘跡

13 なぜ男女が結婚しなければならないか [1] ―婚姻する理由―

 なぜ婚姻が創設されたかについていまからのべよう。

 この制度の第一の理由は、両性が相互に援け合うことを希望して結びつき合うのが自然の本能だからであり、この相互援助の中に生活の変転と老齢の弱さとを耐え忍ぶ、より多くの力を見いだすからである。

 第二の理由は子供をもちたいという望みである。それは、自分の富や財産を相統させるためであるよりも、むしろ真の信仰と宗教を人々に教え与えるためである。旧約の聖なる太祖等が結婚したのは、何よりもこの目的であったということを聖書ははっきりとしるしている。このため、大天使聖ラファエルは卜ビアに悪魔の暴力に対して身を守るための手段をつぎのように教えたのである。「私の言葉を聞きなさい。私は悪魔が勝利を占めるのはどのような人であるかをあなたに教えよう。すなわち結婚のとき自分たちの心から神を追い出し、弁えのない馬や馬のように自分の本能におぼれる人々に対して悪魔は強いのである」―それから天使はつけ加えて言った。「このようにして、第三夜が過ぎたならば、肉欲よりもむしろ子供を持ちたいという望みから、神を畏れながら処女を享けなさい。これはアブラハムの子孫であるあなたが自分の子供たちに神の祝福を受けるためである。」(トビア6・16、17・22)[2] なぜ神がはじめから婚姻を制定されたかという理由の一つはここにある。したがって既婚者で妊娠を妨げ、あるいは堕胎するために医薬を使用するものは、きわめて重大な罪を犯すことになり、これは謀殺罪とみなされる。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 49, a. 1, 2 参照。
[2] このテキストは、トリエント公会議当時用いられていたヴルガタ訳によっている。

14 原罪以来、どのような目的が婚姻につけ加えられたか [1]

 以上二つの理由に、さらに人祖が罪を犯し、彼らが創られた時の潔白を失い、情欲が理性に対して反抗をおこしはじめて以来、第三の理由がつけ加えられるようになった。この時以来、自分の弱さを自覚しながらも肉の反抗と闘うことを望まないものは、肉欲の罪を避けるための助けとして、婚姻がすすめられるようになったのである。これについて聖パウロはつぎのようにいう。「淫行を避けるためには、男はそれぞれ妻を持ち、女はそれぞれ夫をもつがよい。」その少し後で彼は、祈りに従事するために夫婦関係を一時的にやめることを勧告してからさらに、「ふたたび共になるがよい。それはあなたたちを誘うサタンを肉欲に乗じさせないためである」とつけ加えている。(コリント前7・2、5)

 したがって、それぞれ聖人の子にふさわしく、聖にして敬虔な方法で婚姻を結ぼうとするものは、以上三つの理由のうち、少なくとも一つは目的としなければならない。けれども、もしあるものがこの他の理由から結婚したとしても、またもし配偶者の選択を、主として相続者を残したいとか、財産とか、美ぼうとか、高貴な家柄の出身であるとか、性格の類似のためとか、の望みによって行なったとしても、これらの動機は決して非難さるべきものではない。このようなものは婚姻の聖性に反するものではないからである。聖書も太祖ヤコブが、美しいという理由からレアよりもラケルを好んだことを非難されたとは書いていない。(創29・16-17) 自然的契約としての婚姻については、以上のことを教えなければならない。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 42, a. 2, 3 参照。

15 なぜ婚姻はキリストによって秘跡の権威にまで高められたか [1]

 ここで秘跡としての婚姻が(自然的契約としてのそれよりも)、はるかにすぐれたものであり、まったく最高の目的のために定められていることを説明しなければならない。自然的契約としての婚姻制度は、最初から人類の増加を目的としていた。その後婚姻が秘跡の権威に高められた目的は、真の神であり、わが救世主であるイエズス・キリストを礼拝するための民が生まれ、これが育くまれるためであった。主キリストが、ご自分とその教会との間にある密接な結合と、われわれに対するかぎりない愛との確実な徴を与えようとされた時、主はこの聖なる奥義を主として、男女の聖なる結合の暗示によって教えられたのであった。主はこの例を引くことによって、あらゆる人間関係の中で、婚姻のそれほど密接に人を結びつけるものはないということ、そしてこの関係にある男女は最も深い愛と好意の中に結び合わされることを示されたのである。聖書がしばしばキリストとその教会との聖なる結合を婚姻にたとえてわれわれに示すのは、このためである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 42, a. 1; Sum. Contra Gentiles, lib. IV, cap. 78 参照。

16 婚姻は福音の掟による真の秘跡であることについて [1]

 教会は聖パウロの権威により、婚姻が秘跡であるということを常に確実で疑うことのできないものであるとしてきた。実際聖パウロがエフェゾの人々へ書き送った手紙にはつぎのように書かれている。「夫は自分の体のように妻を愛さねばならぬ。妻を愛する人は自分を愛する人である。だれも自分の体を憎むものはない。みなそれを養いはぐくむ。キリストも教会のためにそうされる。私たちは彼の体の肢体であり、(その肉、その骨で成り立っている) 『これがために男は父と母とを離れ、妻と合って二人は一体となる』この奥義は偉大なものである。私がいうのはキリストと教会とについてである」(エフェゾ5・28-32)と。彼が「この奥義は偉大なものである」という時、この言葉が婚姻を指していることは疑いのないことである。[2] というのは、神が、定められた男女の結合は、まさに奥義であり、換言すればそれはイエズス・キリストとその教会との一致という、もう一つのいとも聖なるきずなの神聖なかたどりだからである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 42, a. 1 参照。
[2] Tertullianus. liber de Monog.; Aug. de fide et oper. c. 7; Liber de nupt. et concup. c. 10 et 12

17 聖パウロの言葉による婚姻が秘跡であることについて

 この言葉を解釈した古代のすべての教父たちもこの言葉の本来的な、そして真の意味はこれであると言っている。トリエントの聖なる公会議も同じようにこれを説明する。(1) したがってつぎのことは確実である。すなわち聖パウロは男をイエズス・キリストに、女を教会にたとえていること[1]、イエズス・キリストが教会の頭であるように男は女の頭であること、そしてこの理由によって男はその妻を愛さなければならないし、妻はその夫を愛し、尊敬しなければならないということ(エフェゾ5・23-25)、これである。なぜなら一方においてはイエズス・キリストがその教会を愛され、その教会のために命を与えられたからであり、他方においては聖パウロの教えによれば、教会はイエズス・キリストに従うからである。

 トリエント公会議は、この秘跡によって恩寵がしるされ、与えられること、及びとくにそのことに、この秘跡の本質があることをつぎのような表現で宣告した。すなわち、「すべての秘跡の聖なる制定者であり、完成者であるイエズス・キリストご自身が、われわれをして夫婦の自然的愛情を完成し、彼ら相互間の解消することのできない単一性を固め、これを聖化するに適した恩寵を受けるに値するものとされたのである」と。(2) したがって信者に対してはつぎのこと、すなわち相互愛のきずなによって結合された妻とは、この秘跡の恩寵によって、不正な愛情や姦通にはしることなく、相互愛の中に安らうことができること、そし万事において「婚姻を尊び寝床をけがさないように」(ヘブライ13・4)できることを教えなければならない。


(1) Conc. Trid., sess. 24, de Matr. in princ. et can. 1
(2) Sess. 24

訳注
[1] S. Ambrosius, in ep. ad Ephesios

18 福音の掟に基づく婚姻が自然的契約としての婚姻やモイゼの律法による婚姻とは異なるものであることについて

 このようなキリスト信者の婚姻が、モイゼ以前のものでも、それ以後のものでも、これまでなされてきた結合に比してどれほどすぐれているかは容易に判断されるであろう。なぜなら、たとえ異邦人たちが婚姻の中に何か神聖なものがあると確信し、そのために婚姻以外で生じた結合を自然に反するものと感じ、あるいはまた、彼らが強姦、姦通その他の放縦を罰すべきものと考えていたとしても、やはり彼ら、異邦人間の婚姻は決して秘跡的性格をもっていないからである。ユダヤ人の間では、確かに婚姻の掟は異邦人のそれよりも、もっと宗教的な心をもって守られており、もちろんその婚姻も、もっと神聖なものと考えられていた。彼らは、すべての国民はいつかアブラハムの子孫によって祝福を受けるであろう、との約束を享けたので、子供を増やし、われわれ救世主であるキリストが人間として生まれたもうことになっていた。この選民の増加に貢献することを、深い信心行為であると考えていたのであった。しかし彼らの婚姻も真の秘跡の性格はもっていなかったのである。

19 婚姻は最初神より受けていた美しさを原罪の後には、もはや自然法のもとでもモイゼの律法のもとでも保っていなかった [1]

 これに以下のことをつけ加えなければならない。われわれは自然法によって考えてみても、モイゼの律法によって考えてみても、人祖の原罪以来、婚姻がその最初の美しさと純潔さを弱めたことを容易にしる。したがってもっぱら自然法のみが行なわれていた時代に、多数の太祖たちが、同時に多くの妻を抱えていたことをわれわれは認めている。そしてモイゼの律法のもとでも、正当な理由がある時には、離縁状を与えるなら妻を離婚することが許されていた。(申24・1) このような一夫多妻や離婚は、福音の掟によって禁じられ(マテオ19・9)、婚姻はその最初の状態をとり戻した。わが主キリストは、つぎのような言葉で一夫多妻が婚姻の本質に反することをのべられている。「男は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる」と。さらにそのすぐ後で「二人ではなく、一体である」とつけ加えられている。(マテオ19・5-6) 多数の妻をもっていた旧約の太祖たちは、神の許しを得てそうしたのだから、非難さるべきではないとしても、キリストのこのみ言葉は、婚姻が多数人の結合ではなく、ただ二人だけの結合として神から制定されたものであることを明らかにしている。キリストはまた他の時にも、このことを教えられている。「妻を出して、ほかに結婚する人は、はじめの女について姦通を行なうことになり、また妻が夫を捨てて、他の人に嫁ぐなら、やはり姦通をしたことになる。」(マルコ10・11-12) なぜなら、もし男に多数の女をもつことが許されるとするなら、すでに妻をもちながら同時に他の女と結婚することのほうが、最初の妻を離縁して後に第二の妻をめとることよりも、より大きな姦通の罪を犯すものと非難する理由がなくなってしまうからである。未信者がその国の風俗や習慣によって、多数の妻をめとった後に真の宗教に改心するならば、教会は最初の妻のみを真の正当な妻として残し、その他の女はすべて出してしまうように命じるが、それはこの理由に基づくものである。[2]

訳注
[1] Sum. Theol., suppl., q. 67, a. 2, 3, 4, 6, 7 参照。
[2] 教皇聖下は、未信者夫婦の一方が改心して受洗した場合、一定の条件と正当な理由があれば、その婚姻の解消を許されている。(〔〕教会法、カノン、一一二五)
たとえば
 (イ) 多数の妻をもった男が改心した場合、その妻の中、だれが最初のものであったかを記憶していない場合、彼はその中から自分の気にいったものを選択して、彼女と結婚することができる。(パウロ三世)
 (ロ) 彼がそれを記憶してはいるが、彼女とすでに別れており、その発見が非常に困難であるという場合、彼は女たちの中で彼と同時に受洗したものを正妻とみなし、他の女を出すことができる。同様に彼は彼と同時に受洗した女と別れることが苦しい場合には、彼女とともに暮らすことができる。(ピオ五世)

しかしながら、もし最初の妻が、自発的に受洗の希望を宣言する時には、彼女の夫は、第二の、そして彼女以外の妻をめとることができない。

※ サイト管理人注: [2] 現行の教会法の第1148条および第1149条参照。

20 婚姻関係は離婚によって解消されえない [1]

 婚姻関係がいかなる離婚によっても解消されえないということは、わが主キリストのみ言葉からも容易に証明される。なぜなら、女がもし離縁状を受けとった後は、その夫に彼女を結びつけていた掟から解放されるものとすれば、彼女は姦通罪を犯すことなく、他の男との結婚が許されるであろうからである。ところで主は明らかにつぎのように宣言されている。「自分の妻を出して、他の女と結婚する人は姦通を犯す」と。(ルカ16・18) したがって婚姻関係は、死による場合以外は、どのような理由があろうとも、解消しえないことは明白である。聖パウロもつぎのようにのべてこれを確認している。「妻は夫の生きている間は彼に結ばれているが、夫が死ねば望みの人に嫁ぐ自由がある、しかし主において行なえ」と。(コリン卜前7・39) またつぎのようにも言っている。「すでに結婚した人には、妻は夫と別れるなと命じる。命じるのは私ではなく、主である。もし(妻が)別れるならば、ふたたび嫁いではならぬ。そうでなければ夫と和解するがよい」と。(同7・10-11) したがって聖パウロは、正当な理由で夫の許を去った妻に対してふたたび結婚することなくそのままいるか、あるいはその夫と和解するかのいずれかを選択するようにしたのである。実際聖なる教会は、夫婦に、最も重大な理由がなければ別居することを許さない。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 67, a. 1 参照。

21 どのような理由があっても、なぜ婚姻は解消されえないか [1]

 いかなる理由によっても婚姻の解消を許さない、この婚姻の掟が、あまりにも苛酷なものに思われないようにここで婚姻がもたらす種々の利益を示さなければならない。

 まず第一に人は、これから結ぼうとする婚姻について、相手の財産とか、美ぼうといったものよりは、むしろ相手の徳や、生活環境の類似といった点を考慮すべきことをしらなければならない。このような考慮が家族の内部によき調和を保つためにとくにふさわしいものであることはいうまでもない。さらにもし婚姻が離婚によって解消しうるものとなると、夫婦は、平和と貞潔との仇敵が毎日彼らにもたらす不和の種子にほとんど事欠くことはないであろう。[2] いま信者の夫婦が、たとえ食卓と家を異にしたとしても、彼らは依然として婚姻のきずなによって結合されており、他の女と結婚する希望が全然与えられていないということを考えてみるなら、彼らは日常の怒りや意見のほうをもっとよくおさえるであろう。もし彼らが一度別れた後にもこれ以上長くひとり暮しに耐ええないというような時には、彼らは友人の仲介によって、容易に和解し、共同生活にもどることができるのである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 67, a. 2; Sum. Contra Gentiles, lib. IV, cap. 78 参照。
[2] De Conjugiis adulterinis, lib. XI; P. L. XL, col. 476-478.

22 離縁状によって別れたものもふたたびいっしょになることができる [1]

 しかしここで司牧者は、聖アウグスチヌスの言っている有益な勧告を無視してはならない。聖アウグスチヌスは、信者が姦通の罪のために追い出した妻に対し、彼女がその罪を痛悔し、ふたたび恩寵の状態にもどった時には難色を示すことなく、和解しなければならないことを示すためにつぎのように言っている。「なぜ信者の夫は、教会が受けいれたその妻を受け入れないのか。妻はなぜ、姦通をしたが、痛悔し、キリストご自身がおゆるしになったその夫をゆるさないのか。」(1) 聖書が「姦通した妻をそのまま止めている夫」を「愚かもの」とよぶ時、ここで言われている姦通した妻とは、罪を犯した後も痛悔と淫行からの脱出とを拒んでいるものとの意味である。(格18・22)[2] 以上のべたことから、信者間の結婚が、異教徒やユダヤ人たちのそれよりも、はるかに完全であり、はるかに権威をもっていることは明白である。


(1) De Conjugiis adulterinis, lib. II,cap. VI et IX; P.L. XL,col, 474 et 476

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 67, a. 5 参照。
[2] ただしこの句はヴルガタ訳にはあるが聖書原文にはない。

23 婚姻の秘跡に特有な善とは何か [1]

 さらに信者は、婚姻に特有な三つの善があることを教えられなければならない。すなわち三つの善とは、子供(Proles)と忠実(Fides)と、奥義(Sacramentum)であり、それらは聖パウロが「既婚者は自分の体において試練を知るであろう」(コリン卜前7・28)と指摘している種々の労苦を軽減させてくれ、さらに婚姻以外においてはまさに罪とされる肉体の結合を正当なものとするのである。ここで第一の善とは、子孫、すなわち正当な真の妻から生まれた子供を指す。聖パウロはこの善を、「婦人は子を生むことによって救われるであろう」(チモテオ前2・15)といって評価している。この言葉はただ単に子供を生むことを指すばかりではなく、子供が敬虔な人間として、育っていくようにとの訓育と教育との意味にも解さなければならない。なぜなら、聖パウロはそのすぐ後で、「もし彼女が信仰にとどまるならば」とつけ加えているからである。聖書はつぎのような警告を発している。「あなたたちは子供をもっているのか。彼らを小さい時から教え、頭を下げるようにさせよ」と。(集7・23) 聖パウロも同じことを教えている。さらに聖書の中で、トビアやヨブや太祖たちはこのような教育の最も美しい例を示している。両親と子供の義務については第四戒の説明の際にもっと長くのべられるであろう。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 49; Sum. Contra Gentiles, lib. IV, cap. 78 参照。

24 婚姻における忠実とは何か。またどうしてそれを保つか [1]

 つぎに婚姻の第二の善である忠実(Fides)の問題をとりあげよう。[2] けれどもこれは、われわれが洗礼によって受ける信仰の徳ではなく、ある忠実さ(Fidelitas)を指すものである。この忠実さとは、夫婦それぞれにその身体に関する権利を相互に与え合い、婚婚の聖なる契約を決して破らぬことを約束させるほどまでに、夫を妻に、妻を夫に結び合わせるものである。このことは、われわれの人祖がその妻エワを受けた時言った言葉(創2・23) [3]から容易に出てくる。わが主も福音書の中で、「だから男は父母を離れてその妻と会い、二人は一体となる」と言われて、この言葉を認めておられる。聖パウロもほとんど同じように明白にいっている。「妻は自分の体を随意にする権利をもっていない。夫がその権利をもっているのである。同様に夫も自分の体を随意にする権利をもっていない。妻がその権利をもっているのである。」(コリン卜前7・4)したがって神が旧約において、この夫婦の忠実を犯す姦通者をあれほど非常にきびしく罰されたのは、完全な正義に基づくものであった。

 婚姻の忠実はさらに、夫と妻とが、姦通者が相互に愛し合うようにではなく、キリストがその教会を愛されるように、二人だけの純粋で聖なる愛情によって結び合わされることを要求する。聖パウロは「夫よ、キリストが教会を愛されたように、あなたたちも妻を愛せよ」(エフェゾ5・25)といってこの模範に従うことを命じている。ところでキリストがその教会に対して示された広大な愛とは、確かに利己的な愛ではなく、その浄配である教会の利益のみを求めようとする愛であった。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 49, a. 2; Sum. Contra Gentiles, lib. III, cap. 124 参照。
[2] ラテン語のFidesには、信仰fidesと忠実fidelitasとの二つの意味があるがここでは後者の意味である。
[3] この言葉は、現代の聖書学者、例えば、Pirot et Clamer, La Sainte Bible, Tome I, lère partie, Genèse, p. 125 〔に〕よれば、アダムの言葉ではなく、聖書記者のそれであるとみなされているが、トリエント公会議《Sessio XXIV》はこれをアダムの言葉と解していた。したがってこのように書かれたものである。