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ローマ公教要理 秘跡の部 第二章 13-24 | 洗礼の形相は何か、誰が洗礼を授けるか

 秘跡の部 目次

第二章 洗礼の秘跡

13 洗礼の形相は何か

 司牧者は、すべての人に理解可能な明白な言葉で、洗礼の本質的かつ完全な形相が「われ、聖父ちち聖子聖霊せいれいとのみ名によりて汝を洗う」という言葉であることを教えねばならない。主はマテオ聖福音書に見られるとおり、使徒たちに向かって「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼を授けなさい」(マテオ28・19)とおおせて、この形相をお定めになった。神感によって導かれるカトリック教会は、この「洗礼を授けなさい」という語は形相の中の授洗者の行為を表わしていると解釈したのである。「われ汝を洗う」といいながら授けるのはそのためである。形相は授けるもののほかに、また洗礼を授かる人および秘跡を生ずる主要原因たるものを表わさねばならないが、それらは「汝」という言葉と聖三位の各ペルソナを名ざしてよぶことによって示されている。それゆえ、洗礼の全体的な形相は、上に引用した「われ、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝を洗う」という言葉になる。実際この秘跡の効果を及ぼしたもうのは、聖ヨハネが「私はそれを見、そして、その方こそ神の御子であると証明した」(ヨハネ1・34)とのべているとはいえ、御子だけではなく、聖三位の三つのペルソナである。「み名によりて」(Nomen)(単数)といって「み名によりて」(Nomina)(復数)といわないのは、聖三位には唯一の本性、唯一の神性しかないからである。そしてここでいうみ名は、各位のペルソナにかかっているのではなく三つのペルソナにおいて唯一であり、同一である本体、力、権能を指しているからである。(1)

訳注
(1) マテオ聖福音書中にみられるキリストのみ言葉の中には、それを原文どおりにとるとさらに別の意味が含まれている。すなわち原文では“en to onomati”ではなく“eis to onoma, fertur in cultum et servitium. ” (cf. I Cor. 10, 2; eis Mousen: ad oboedientiam erga Moysen) Zerwick, Analysis Philogica Novi Testamenti Graeci, p.77 参照 となっており、ギリシャ語の前置詞εἰς〔(eis)〕は聖三位に向かっての運動を表わしている。そこからして洗礼を授けるのは聖三位のみ名「の中へ」導き入れるためである。いわば受洗者は聖三位の光栄と権能のために聖別されるのである。

※ サイト管理人注: eis to onoma (ギリシャ語 εἰς τὸ ὄνομα の音写) = 【ラテン語】in nomine)

14 すべての語は同じく必要か

 いま、全部を完全に伝えたこの形相の中で、ある言葉は秘跡の有効性を損うことなしには省略できないほど必要であり、ある言葉、たとえば(ラテン語の)Egoという言葉の語意はbaptizoという動詞の中に含まれているので、それほど重要なものではなくそれを省いたとしても秘跡の本質は損われない。ギリシャ教会はいい方を変え、授洗者についてのべる必要はないとして、その代名詞を省略している。そこでこれらの教会では一般に「キリストのしもべ(受洗者の名をいう)が聖父と聖子と聖霊のみ名によりて洗われんことを」という形相を用いている。これらのことばによっても秘跡は有効に授けられる。それはフロランス公会議の決定によって明かなとおり、(1)それらの言葉は、この秘跡の真の特性、すなわちそれをのべる時に実際になされる洗い清めを十分明確に表わしているからである。(2)

訳注
(1) Conc. Florent., Decretum pro Armenis 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 66, a. 5 参照。

15 使徒たちはキリストの名において洗したではないか

 「主イエズス・キリストのみ名」だけを用いて洗礼を授けた時代があったことは認めざるをえないが(使2・38、8・16、10・48)、しかし彼らは、教会の創始にあたって、イエズス・キリストの聖霊の霊感によってそうしたのだと判断すべきである。さらに事柄を徹底的に吟味すれば、この形相には、救い主御自らによって定められたことは何も欠けていないことが容易にわかる。実際「イエズス・キリスト」という時、それは同時に、主に聖なる塗油を授けたもうた御父のペルソナ、それによって主が塗油されたもうた聖霊のペルソナをもっているからである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 6 参照。

16 使徒たちはキリストのみ名だけで授洗したのではない

 とはいえ、聖アンブロジウス、聖バジリウス、その他多くの権威ある教父たちの教えをきくと、はたして使徒たちがこの形相を用いて洗礼を授けていたのか疑わしい。彼らによると、「イエズス・キリストの名による」洗礼というのは、ヨハネの洗礼ではなくイエズス・キリストによって定められた洗礼を示しているのであって、使徒たちは洗礼を授けるにあたって三つのペルソナを示す通常の、そして一般の形相をしりぞけていたのではない。聖パウロもガラチア書において「キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな、キリストを着たからである」(ガラチア3・27)と同じいい方をしているように思われるがこの言葉はガラチア人たちの受洗はイエズス・キリストに対する信仰においてであり、われわれの救い主御自らが定めたもうた形相と異なった形相をもってでないことを意味している。信者たちに洗礼の本質を構成する質料と形相について教えるためには以上のべたことで十分であろう。

17 洗浄はどんなにして行なうか

 しかし秘跡を生ずるためには、合法的な水の用い方が必要である。それゆえ司牧者はこの点について教え、洗礼の授け方には三つあるが教会の慣例や規定によってその中の一つをとることができることを説明せねばならない。すなわち受洗者を水に浸すか、あるいはそのものに水をそそぐか、あるいは灌水によって水をまくかである。そしてこれら三つの方法の中のどれによっても、洗礼は確かに有効である。(1) 洗礼に水が用いられるのは、それが結果づける霊魂の洗い清めを意味するためである。だからこそ聖パウロは洗礼を「水洗い」(エフェゾ5・26)とよんでいる。ところで、長い間初代教会において行なわれていたように水中に浸したり、あるいは今日一般に行なわれているような水をそそぎかけたり、または聖ペトロが一日に三千人を改宗させ洗礼を授けた(使2・41)といわれている場合のように、灌水による洗浄も、みな同じ洗浄である。(2)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第758条参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 66, a. 7 参照。

※ サイト管理人注: 以降、現行の教会法の洗礼に関する規定(第849条 ー 第878条)と異なる内容もございますことをご承知おき願います。

なお、旧教会法第758条は現行の教会法第854条と対応しておりますが、現法には灌水の方法(per aspersionem)については記載されておりません。浸水、注水のみの記載です。

「第854条: 洗礼は、浸水または注水によって授けられる。ただし、司教協議会の規定を遵守しなければならない。」(『カトリック新教会法典』有斐閣、p.473)

18 洗浄の回数について

 洗い清めは一回するか、三回するか、どちらでもさしつかえない。聖グレゴリウス大教皇は、レアンデルあての手紙の中で洗礼は昔もいまもいずれの回数でも授けられるといっている。しかし信者は各自が属する教会の方法に従わねばならない。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第758条参照。

19 なぜ頭に水をそそぐか

 水をそそぐのは身体のどの部分でもよいというのではなく、主として頭にそそぐ。それは頭がすべての内外の感覚の中枢のようなものだからである。(1) さらに、秘跡の形相である言葉は洗い清めの前あるいはあとにではなく、その洗い清めがなされると同時に、しかも水をそそぐその人によって唱えられねばならない。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 7 ad 2 参照。

20 洗礼の秘跡の制定の時について

 これらの説明ののち、洗礼は他のすべての秘跡と同じく主イエズス・キリストによって制定されたことを信者たちに教え、また思い出させることが大切である。そのため司牧者は洗礼には二つの異なった時、すなわち救い主がそれを制定したもうた時と、それを授かる義務をすべての人々に課せられた時とがあることを度々教え説明しなければならない。まず第一の時に関しては、この秘跡は主イエズス・キリストご自身、洗者ヨハネから洗礼を受け(マテオ3・16)水に成聖の力を与えられたその時に、主ご自身によって制定されたと明察される。水がわれわれを霊的生命に再生せしめる力を受けたのはその時であるとナジアンゼの聖グレゴリウス(1)と聖アウグスチヌス(2)は確言している。聖アウグスチヌスによれば「イエズス・キリストが水に浸されたもうたからこそ水はすべての罪を消す」のであり、さらに、「主が身を洗われたのは清められるためではなく、その汚れないご自身との接触によって水を清め、ついでわれわれを清める力を水に賦与するためだったのである」。(3) さらにこの論証は、このおごそかな瞬間に洗礼の主要因である聖三位のすべてが御姿を現わされたということによって強く裏づけられている(マテオ3・16)。すなわち御父の御声が聞かれ、御子は御自らそこにましまし、聖霊は鳩の形で降られたのである。さらに洗礼によってわれわれがめざして上りはじめる天国も開かれたのであった。(4) もしもだれかが、なぜ主はかくも神的な力を水に与えたもうたのかと尋ねるならば、それはわれわれの知性を越えることであると答えねばならない。しかしわれわれが悟りうることは、救い主の受洗においてその聖にして清いご肉身に触れた水は、この秘跡の質料として聖別されたということである。このようにこの秘跡はご苦難以前に制定されたとはいえ、その力と有効性とは、主のすべての行ないの終点ともいうべきご苦難からきているということは疑いない。(5)

訳注
(1) S. Gregorius Nazianzenus, orat. in Nativ. 参照。
(2) S. Augustinus, serm. 19, 36 12, 37 de temp. 参照。
(3) S. Augustinus, supra.
(4) Sum. Theol., III, q. 39, a. 1-8 参照。
(5) Sum. Theol., III, q. 66, a. 2 参照。

21 洗礼が義務づけられたのはいつか

 受洗の義務がすべての人々に課せられた時については、疑いをはさむ余地は全くない。教会の著作者たちは、主がご復活後には使徒たちに向かって「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に、福音をのべ伝えなさい」「あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼を授けなさい(マルコ16・15、マテオ28・19)とおおせられたその時に、救霊を望むすべての人々に洗礼を授かる義務が課せられたのだと一様に認めている。この結論は聖ペトロのつぎの言葉からも引き出される。「われらの主イエズス・キリストの父なる神は賛美されるように、神はその大いなるあわれみにより、イエズス・キリストの死者の中からの復活によって、われわれを新たに生まれさせ、生きる希望をいだかせた」(ペトロ前1・3)と。さらに聖パウロが教会について「(キリストが命をすてられたのは)水をそそぐこととそれにともなう言葉によって教会を清め、聖とするためである」(エフェゾ5・26)とのべている言葉からも同じくいうことができる。両者とも受洗の義務を救い主のご死去後の時期においているように思われる。そこからして「まことに、まことに私はいう、水と霊によって生まれない人は、天の国にははいれない」(ヨハネ3・5)と断言された主が、その時ご自分のご苦難ののちに来る時を考えておられたことは疑いないところである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 2 参照。

22 洗礼の秘跡の尊厳さについて

 もしも司牧者が以上のことを適切に教え伝えるならば、信者たちが洗礼の偉大な尊厳さを認め、そして洗礼に対して深い信心をもつようになることは疑いない。とくにキリストの洗礼において奇跡のしるしによって表わされた感ずべき恩寵が、いまも洗礼を受けるすべての人々の霊魂に聖霊の力によって内的に与えられ生じるということを考える時そうであろう。実際にエリゼオのしもべに起こったように(列下6・17)われわれの眼が天上のものを見るよう開かれうるとすれば、洗礼の尊い奥義を前にしてだれもが感嘆の念にかられるであろう。もし平気でいる人があるとすればその人は常識を欠いているといわねばなるまい。もし司牧者が、この秘跡の豊かさを、信者たちが、肉体の眼によってではなくとも信仰に照らされた精神の眼で見ることができるように説明するならば、以上のようなことがどうして起こりえないはずがあろうか。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 35, a. 5-6 参照。

23 だれが洗礼を授けるか

 この秘跡を授けるのはだれか、これに関する説明は有益であるばかりでなく、必要なことである。なぜならこの説明によって、授洗の聖職務を託された人々はそれを聖くまた敬虔さをもって果たそうと努めるだろうし、まただれもその権限の範囲外に出て他人の領分に時宜をかまわず入りこんだり、傲慢に介入したりせず、聖パウロが戒めているように、すべてふさわしく秩序正しく行なう(コリント前14・40)ようになるであろう。そこで信者たちに、洗礼の執行者に三つの階級があることを知らせるべきである。第一の階級には司教と司祭が属しており、彼らはある特別の権能によってではなく、彼らの聖職からくる権能によってこの聖職務を行なうのである。(1) 主が「あなたたちは聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼を授けなさい」(マテオ28・19)とおおせられたのは使徒たちと同時に司教たちに対してである。そしてその司教たちは、人を教えるというさらに重要な任務がなおざりになるのをさけるため、司祭たちに授洗の任務を委ねるようになったのである(コリント前1・17)。司祭たちが、たとえ司教がそこにいたとしても自己の権能によって洗礼を授けうるということは教父たちの教えや教会の慣習によって明らかである。(2) 実際、司祭が平安と一致の秘跡である聖体を聖別するために定められているとするならば(コリント前11・24-25)、人々をこの平安と一致とにあずからしめるために必要なすべてのことを行なう権能を同時に与えられているということは全く当然なことである。ある教父たちが、司祭は司教の許可なしに洗礼を施す権をもっていないといっているとしても、それはただ洗礼をより荘厳に授ける慣わしのあった、一年じゅうのある日に関していっているのだと理解すべきである。(3) 第二の階級は助祭である。しかしほとんどの教父たちが一致して教えているように、かれらは司教あるいは司祭の同意をえてはじめて洗礼を授けることができる。(4)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 67, a. 2 参照。
(2) S. Isidorus, lib. 2 de Offic. Eccl. 参照。
(3) 〔旧〕教会法第738条―第740条参照。
(4) 〔旧〕教会法第741条。
Sum. Theol., III, q. 67, a. 1 参照。

24 緊急の場合の洗礼の執行者について

 最後に、必要な場合に通例の儀式なしに洗礼を授けうる人があげられる。その中には、普通の人でも男子であれ、女子であれどんな宗教の人でも含まれる。たとえユダヤ人であっても、未信者または異端者であっても、この秘跡の授与にあたって教会が行なうことをしようという意向があれば、必要な時には、この聖職務を果たすことができる。(1) このことは、初代の教父たちや諸公会議の決議によっても明らかである。とくにトリエントの公会議は「聖父と聖子と聖霊のみ名によって、教会が行なうことをしようとする意向のもとに、異教徒によって授けられた洗礼は有効な真の洗礼ではない」とあえて主張する人々に対して破門を宣告している。(2) そこにわれわれは主のかぎりない寛大さと英知とをみることができる。すなわち洗礼はすべての人々に必要であるところからして、その質料としてどこにでもある水を選びたもうた主は、それを授ける権能をだれにも拒まれなかったのである。ただ、前述したようにすべての人が盛式の儀式をもって洗礼を授ける権をもっているのではない。(3) それは儀式や定式が秘跡自体よりも貴いからではなく、秘跡ほど必要ではないからである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 67, a. 3-5 参照。
(2) Conc. Trid., sess. 7, can. 4.
(3) 〔旧〕教会法第742条参照。