イエズス会のハインリヒ・デュモリン神父様(1905年-1995年)が、1956年初版発行の著書『典礼にいきる信心 Ⅱ(第二巻)』にて御受難の聖節中の心構えについて記されています。
※ 受難節: 四旬節第五主日である「御受難の主日」から聖土曜日まで(トリエント・ミサの典礼暦)。英語では「Passiontide」と呼ばれる。
受難節中の晩課で歌われるVexilla regis ヴェクシラ・レジスの美しい文語訳が「(二) 十字架の讃歌」にて掲載されており、且つ典礼と信心に関する解説、聖レオ大教皇様の説教、ローマ公教要理や『キリストに倣いて』への言及もあるなど、参考になる内容につき紹介いたします。
御受難の聖節中の心がまえ
(一) 復活祭準備のしめくくり
御受難の主日をもって復活祭準備の第三のそして最後の段階が始まる。典礼の性格は一変する。四旬節中は信者の改心と痛悔、求道者の洗礼準備などが祈りや修徳の主なモティーフであるが、御受難の主日以後はキリストの御受難が前景にでてくる。敵にとりかこまれ深い苦しみの中から天主に向って叫び給う救主の御言葉が典礼文の中にひびく。聖唱部ではメシアの受難を暗示する預言的な詩篇の句が祈られる。聖務日課の朗誦は、御苦難の救主の前兆と特にみなされている預言者イェレミアの書からの一節である。イェレミアはイエルザルム没落とユデア人追放の悲運を予見し、やがて来るべき神罰を感動的な言葉でユデア人に告げ、そのために却って同胞から迫害され拷問される結果となった。いよいよ禍が訪れ、町も神殿もくずれ落ちたとき、この預言者は聖都の癈虚に立ってあの悲痛な哀歌を歌った。教会は聖金曜日にこの哀歌をもつて救主の十字架上の死とイスラエルの却罪という底知れぬ悲劇を歎き悲しむのである。
御受難の主日から聖金曜日にいたるまでは全世界のどの聖堂でも十字架像や御像などは紫色の布で覆いかくされる。十字架像を覆いかくすのはどういう意味だろうか。イエズスの御苦難と御死去とを教会が特に記念するこの時期にこそ、十字架に釘づけられ給うた御者の姿は却って敬虔な崇敬の念を起させるために信者の眼にふれさせるべきではないのでなかろうか。このしきたりも歴史がわれわれに説明してくれる。初代教会では十字架は救主の勝利を物語るしるしであった。金又は銀で作られ高価な宝石でちりばめられたクルックス・ゲンマタ(宝石の十字架)は聖堂の中央に輝いていた。受難週にそれが覆われることはきわめて意味深く且つ人情の機微にふれた悲しみの表現であつた。御苦悶の御体のついた十字架は漸く中世になって現れたもので、とくに聖ベルナルドやアシジの聖フランシスコの影響下にイエズスの聖なる人間性に対して深い信心が行われるようになってからのことである。しかし十字架を被覆する風習は教会内にそのまま残り、今や異った解釈を得るに至った。即ち信者は聖堂で御苦難の救主をもはや眺めることができないので、イエズスの崇高なお苦しみの姿をそれだけ一層深く心にきざむようになったのである。聖金曜日までの数日、信者は、十字架の玄義を一層深く理解しようとの熱い望みに燃え、ひとすじに心をこめて御苦難のイエズスの御傍に侍るべきであろう。
(二) 十字架の讃歌
今日の典礼が力強く歌い始め、聖金曜日には最高潮に達し、更に御復活の頃にもひびいて黙することのない聖十字架への讃歌は、キリスト信者の心の奥底からほとばしり出てくる。イエズスがわれらの罪の為に犠牲となって釘けられ給うた十字架はわれらの救いの象徴であり、生命の樹である。勝利と果実の面からみれば、御苦難もまた、聖レオが説教中にのべているごとく、「主のすばらしき受難」である。なぜなら、キリストはその聖なる人間性に従って御苦難を通じて不死の生命の栄光に這入られ、われらの救いはその御死去の貴い果実であるからである。十字架の犠牲を通じての救い、これへの信仰は十字架讃歌の基本モティーフである。
御受難の聖節に教会は次のごとく歌う。
王の聖旗はひるがえり
十字架の奇しき象徴は輝き出でぬ、
これに磔られて生命は死を忍び、
死もて生命を蘇らせ給えり
彼は鎗の鋭き尖に
貫かれしかば
われらを罪の汚れより洗はんとて
血と水とを流し給えり
ダヴィド王の深き信仰の歌は
ことごとく成就せられたり
彼はもろもろの民草に告げたり
「天主は木(十字架)にて王たり給う」と。
美しく輝ける木よ
王の深紅の衣に飾られ
ふさわしき柱もて斯く尊き肢体を
担うに選ばれたり
幸福なるかな、汝が横木に
世の贖いは掛り給えり
汝は主の御肉体の計器なりて
悪魔の勝利品を取戻したり
慶たし、この受難において
唯一の望みなる聖十字架よ
善き人には聖寵を増し
罪人には赦免を与えよ
救霊の泉なる三位一体なる天主よ
すべての霊は主を頌め称えん
十字架の勝利を与えられし者に
又その報いをも得しめ給え
十字架の讃歌を貫いている独特の気持が御受難の聖節の典礼に流れている。教会の望みに従って、われらはこの気持を深く心にしみこませ、キリスト信者としての生活のすみずみまでゆきわたらせなければならない。終極点を絶えず見透すということはその第一の特徴である。終極点のみがすべてのこの出来事の意味を明らかにするからである。こうした目的への見透しはキリスト教的態度に本質的なものである。信者が御受難の聖節に救主の御苦難をつらつら考え、心から共に感ずるとき、彼はこの御苦しみが救いがたい破滅、底なしの深みへの顛落に終るものでないことをはっきり知り片時も忘れることができないのである。信仰する心は戦いを通して勝利を、御苦難の悲痛な御姿を通して王を死の没落を通して永遠の支配を眺めるのである。復活祭前の御受難の聖節は敬虔なキリスト信者に多くの努力と悲しみと償いと犠牲とを求めるが、同時に十字架の讃歌からの勝利のひびきが彼等を鼓舞するのである。御受難の主日に際しての聖レオの説教にもやはり次のような信者をさとす言葉がある。「この受難節にこそわれわれはできるだけ十分に信心の務めを果さなければならない。天主の慈悲のいともけだかいあらわれがすぐ目近にせまっているからである。この時節に聖なる使徒たちが聖霊の示しをうけて大斉することを定め、われらもまた主の十字架にともに与ることによって、主がわれらに為されたことにおいてわれらも亦何か為すようにさせたのである。使徒聖パウロも述べたごとく、『われら彼とともに苦しまば、彼とともに光栄を得ん。主の苦難に与るところに、約束されし幸福の期待は確実なり。』」
十字架は神の玄義である。十字架の讃歌にははかり知れぬ玄義の深さが意識される。肉限で知覚できるものは本来のものではなく、この出来事の真の意味や核心はかくされている。十字架讃歌では角ばった固い横木は光輝く樹となる、血と水が脇腹から流れ、人間イエズスの死が示されたとき「木より天主は支配し給う」のである。十字架上のキリストは「神の大能、神の知慧」(コリン卜前一ノニ四)を証明する。十字架の愚鈍は人間の知慧よりも賢く、十字架の弱さは人間の力よりも強い、(コリン卜前一ノ二五参照)。十字架からキリスト信者は人性の最高の知慧として愛の逆説を学ぶ。自らの生命をささげて一切のものをそして永遠の生命を獲得するところの愛のパラドックスを。彼は十字架をわれらの救いの手段として選び給うた神の御旨の知慧を崇め、自分の生涯においても十字架がすべての恵みと喜びの源であることを予感しつつさとる。だから、キリスト信者は教会が受難週の間の毎日、ミサ聖祭の序誦で次のように歌う聖十字架の讃歌に声を和する。「聖なる主、全能の父、永遠の天主。主は人類の救霊を十字架の樹にてなしとげ給えり。これ死が始まりし処より生命も同じく甦り、且つ(楽園の)樹にて勝てる者(悪魔)は、われらの主キリストに由りて同じく(十字架の)樹にて敗られんが為なり。」
(三) 御受難の信心
聖福音に記されている御受難の出来事の一つ一つを敬虔に黙想する、イエズスの御苦雌に対する信心は主として中世に生じたものである。その頃多数のキリスト信者に十字軍の遠征者の保護のもとにパレスチナに巡礼し、聖地でイエズスの私生活上の出来事や特に主がわれら人間への愛からその地上の歩みの間に忍び給うた御苦しみを感謝の思い出をもって崇めたのである。当時またフランシスコ会において始めて十字架の道行やイエズスの五つの聖痕の崇敬などの信心が行われ、これらは迅速にキリスト信者すべての間にひろまった。典礼ではおもに十字架上の勝利者としてのキリストが眺められ十字架讃歌が歌われていたが、今やキリスト信者たちは好んで最後の晩餐又はゲッセマネから始まって御葬り及び御復活にいたる御受難の玄義の一つ一つを黙想して祈った。キリストの御苦難に対するこのような信心が霊的生活のすべての段階にとって有益であることは明らかである。日本でキリシタン時代にはきわめて熱心にこの信心が行われた。心からこの信心に身を献げたキリスト信者で大いなる恩寵を得なかった者は一人もいなかった。
悔悛の途上で自分の罪の赦しと霊魂の潔めを願おうと努力する信者は、救主が人の罪のため自らに引受けられたあの言語に絶したおびただしい御苦難を黙想してこそ、最も容易に本当の痛悔に至るであろう。心の中で御苦難の各留に立ちどまって黙想するとき、彼はイエズスが堪え忍び給うた苦痛と屈辱の一つ一つを思い浮べて胸を打ちながら「これわが過ちなりわが過ちなり、わがいと大いなる過ちなり」と誦えるであろう。なぜなら「彼はわれらの愆のために傷つけられ、われらの不義のために砕かれ」(イザヤ五三―五)たのであるから。
照しの道を歩み徳に進歩しようと欲する者は、ローマ公教要理に記されている如くキリストの受難のうちに「すべての徳の最もすばらしい手本」を見出すのである。「なぜなら、キリストは忍耐、謙遜、大いなる愛、柔和、従順、剛毅を示し給うたが、それは正義のために不義を忍ぶことにおいてのみならず、生命をささげる献身においてもそうであったし、いかなる程度に示されたかといえば、それはわれらの救主はその説教活動の全期間に御言葉をもってわれらにさとし給うた生活の掟のすべてを御苦難の一日に御自らのうちに実現し給うたほどであった。(ローマ公教要理一ノ五ノ十六〔拙サイト掲載箇所リンク〕)。従順はキリストの受難のうちにあらゆる徳の根底として現われる。従順によってキリストは当時の最もきびしい試練に堪え給うた。「受け給いし苦しみによりて従順を学び給い、然て全うせられ給いて、従い奉る凡ての人に永遠の救霊の原と成り給いしたり」(ヘブレ五ノ九)。キリストの御姿は苦しみの従順のうちに全うされる。これこそイエズスにとってゲッセマネの園の苦杯からゴルゴタの丘の「成り終れり」までの重要な時間の意味であった。キリストに従って苦しみの従順の道を歩む者は、光の中に歩む真に照らされた者の小さな群れの一人である。
キリストの受難への信心は「われを愛してわが為に己れを付し給える」(ガラチア二ノ二〇)イエズスを純粋に愛するように霊魂を燃えたたせる。「キリストと共に十字架に釘けられたるなり」(ガラチア二ノ十九)。キリストと一つならんとする聖パウロのかかる愛の最高の告白はいつの時代にもキリストを愛する霊魂によってくり返し語られるのである。愛の一致の道をたどる聖人たちは、いずれも十字架の神秘というバラの花が深紅に咲きほこっている十字架の下に出会うのである。「キリストの模倣」のような簡素な小冊子も霊的生活のかかる最高段階を知っており、次のように教えている。「悲しみによって肉が虐げられればられるほど、それに応じて霊は内的な恩寵により一層強められる。そしてキリストの十字架と一致しようとする愛のために苦悩や災難への望みが往々はげしく強まり、霊はもはや苦しみや悲しみ無しではいられなくなる。なぜなら、霊は神の為により多くより辛いことを忍ぶことができればそれだけ神の御心に適うと思うからである。人間が本能的に常に嫌い避けるところのものを霊の熱意において捉え愛するというかくも偉大なることを弱い肉のうちに可能にさせ成就させるというのは、これは人間の力ではなくキリストの恩寵である」(第二巻十二ノ三四―三六)。キリストの受難を熱心に黙想することによって、霊魂はもし神がその恵みを与え給うならば、十字架に釘けられ給うた救主との愛の一致の高みに達するのである。
※ 【出典】ハインリヒ・デュモリン『典礼にいきる信心 Ⅱ』再版、中央出版社、1961年、pp.146-156
※ 旧仮名遣いや誤字は修正した。ヴェクシラ・レジスの改行も原詩の節に合わせる形に変更した。
※ ヴェクシラ・レジスは、正式にはアーメンで締めくくります。
ちなみに、この讃歌はラテン教父時代の最大の偉大な詩人であるVenantius Fortunatus ヴェナンティウス・フォルトゥナトゥスが作った詩を改変したものです。
ああ主よ、主の教会に、聖なる司祭と熱心なる修道者とを遣わし給え。