聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

サラ枢機卿様の御定年と今年5月の書間(御聖体、司祭の世俗化・冒涜、へりくだっての神に対する崇敬など)

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典礼秘跡省長官であるロベール・サラ枢機卿様は、明日の2020年6月15日の御誕生日に75歳を迎えられます。聖座の諸省の長を務める枢機卿は、満75歳でもって教皇様へ辞職を申し出ることが教会法で規定されています。つまり、御定年です。

前々任のアリンゼ枢機卿様は満75歳を迎えられてから約1ヶ月後に辞職されたので(※)、サラ枢機卿様もあと1ヶ月は典礼秘跡省長官の座におられるかもしれません(※※)。

※ 備考: 前任のアントニオ・カニザレス・ジョベラ枢機卿様は定年になる前に、68歳でスペイン・バレンシア大司教区の教区長へと御異動になっています(2014年)。

※※ 2020年6月18日付けのニュースで、サラ枢機卿様の留任が報じられました。現在、定年の75歳を過ぎても、聖座の諸省または他の常設機関の長に留任している高位聖職者方は他7名おられるとのことです。

関連記事:サラ枢機卿様留任と典礼秘跡省への手紙送付(新型コロナウイルスと聖体拝領方法関連)

サラ枢機卿様が御辞職間近ということもあり、今年の5月に公開された同枢機卿様関連の記事2本を、2つの記事にわけて紹介します。サラ枢機卿様の御発言や、お話しになっているテーマについては日本語として世に出ることがほぼないので・・・。

今回は、フランスのカトリック誌「L’Homme nouveau」のWebサイトに2020年5月8日付で掲載されている書簡のほんの一部の拙訳です。書簡は「試練の時期におけるカトリックの崇拝」についてのテーマであり、御聖体、司祭の世俗化・冒涜、へりくだって神を崇敬しないことによる野蛮への退行(中絶合法化など)についての部分を機械翻訳にたよって翻訳しました。ベネディクト十六世名誉教皇様の、教皇在位時代の御説教も引用されています。

独占記事: Covid-19とキリスト教の崇拝、サラ枢機卿からの書簡

深い苦しみ

(略)

私たちは御聖体の神聖さを忘れていないでしょうか。信徒が自由に使用するために持ち帰ることができるように、聖別されたホスチアをビニール袋や紙袋に包む司祭や、適切な距離を保ち、接触伝染を避けるためにトングなどを使って御聖体を配布する司祭など、息を呑むような冒涜についての話を耳にします。私たちは、イエズス様がハンセン病患者に近づき、手を伸ばして彼らに触れて治癒したことや、モロカイ島(ハワイ)のハンセン病患者のために命を捧げたダミアン神父からどれほど隔たっているのでしょうか。イエズス様を無価値なものとして扱うこのような方法は、御聖体を冒涜するものです。御聖体を自分達の所有物であると考えたことはありませんか? 私たちはこれまで何度も、準備も感謝もせずに、習慣や日課として御聖体を拝領してきました。御聖体拝領は権利ではなく、神様が私たちに与えてくださる無償の恵みです。今回のこと(注:新型コロナウイルス感染症の流行)は、御聖体を拝領する前に感謝の気持ちで身震いし、跪くべきだということを思い起こさせてくれます。ここで、ベネディクト十六世の言葉を思い出してみたいと思います。

「最近、聖書の真のメッセージに対するある種の誤解を耳にするようになりました。礼拝に関するキリスト教の新しさは、1960年代と70年代のある種の世俗主義的精神の影響を受けてきました。礼拝の中心は、もはや古代の儀式や犠牲にあるのではなく、キリスト御自身にあり、キリストの位格にあり、キリストの御生涯にあり、キリストの御受難の神秘のうちにあるということは真実であり、今でも事実です。しかし、この根本的な革新から、聖なるものがもはや存在しないと結論づけてはなりません。むしろ、神の愛の託身であるイエズス・キリストの中に聖なるものの成就を見い出したのだと結論しなければなりません。(略)キリストは聖なるものを廃止したのではなく、聖なるものを成就させ、完全に霊的な新しい礼拝の形式を開始されました。(略)キリストのおかげで、聖なる性質はより真実で、より強烈で、十戒の戒律と同じように、より多くを要求するものとなりました!」

(キリストの聖体(Corpus Christi)の荘厳ミサ聖祭における御説教、 2012年6月7日)

バチカン公式サイト:英訳文リンク

私たち司祭は、至高なる神の崇拝のための奉仕者、聖職者となるために区別され、奉献されたことを常に意識してきたでしょうか? 預言者エゼキエルが断言しているように、私たちはこの地上に神御自身以外の遺産を持たずに生きているでしょうか? それどころか、私たちは何度も世俗的になりました。人気を求め、世俗の基準による成功を求めてきました。また、主の聖域を冒涜してきました。中には、神の臨在の聖なる神殿である、最も弱い者や子供たちの心と体を冒涜するまで墜ちてしまった者もいます。私たちはまた、赦しを求め、悔い改め、償いをしなければなりません。

蛮行の危険性

神聖な感覚を失った社会は、野蛮に退行する危険性があります。神の威厳の感覚は、すべての文明の中心にあります。実際、すべての人間が尊敬に値するとすれば、それは基本的に神のイメージと似姿に基づいて創造されたからです。人間の尊厳は、神の超越性の反映です。もし私たちがもはや神の威厳の前で喜びと尊敬に満ちた畏敬の念を抱いて身震いしなくなったら、どのようにして一人一人の人間の中に尊敬に値する神秘を認識するのでしょうか? もし私たちがもはや神の前に孝愛の印として謙虚に跪くことを望まなくなったら、神の姿と似せて創られたすべての人間の尊厳の前に、どのようにして跪くことができるのでしょうか。もし私たちが、最も謙虚で、弱く、取るに足らない存在でありながら、最も真正で生き生きした現存である御聖体の前に、敬意を持って、崇敬の念を持って跪くことを受け入れなくなったとしたら、最も非力で、かよわい存在である胎児を殺し、恐ろしく野蛮な犯罪である中絶を合法化することについて、どのようにして躊躇するのでしょうか。私たちは今、基礎遺伝学の進歩のおかげで、決定的かつ反論の余地のない方法で科学的に確立されたばかりの真実を知っています。人間の胎児は受胎した瞬間から完全な人間です。

もし私たちが神を崇拝する感覚を失ったら、人間関係は野卑と攻撃性に染められてしまうでしょう。教会で神を敬愛すればするほど、残りの人生では同志に対して、より気を遣った礼儀正しい態度をとるようになるでしょう。

(拙訳終わり)
※ 文中の強調は当サイト管理人によります。

終わりに

「もし私たちが神を崇拝する感覚を失ったら、神の前に謙虚に跪かなくなったら、人間関係は野卑と攻撃性に染められてしまうでしょう」という御主張については、日本の教会の惨状を考えずにはいられません。教会から聖なるものを削ぎ落としていき、聖変化と御聖体拝領時の跪きの姿勢さえも排斥した結果、聖職者でありながら御聖体の尊さを認識できなくなった方々。拝領のときに(立って)舌で拝領しようとする信徒、跪く信徒を叱責、罵倒する司祭方。そして、そのような事例を報告しても無反応で、何の措置も取らない冷酷な高位聖職者方…。


書簡においては、インターネット配信ミサ(視聴数によって価値判断されることへの懸念など)、エゼキエル書を読み直さなければならないということ、聖体行列や聖人の聖遺物行列の奨励、アルカリ加水分解による遺体の液化処理への非難などの話もあったのですが、非常に長い書簡であり、且つ私の語学力のなさから、上記の内容だけにとどめています。補足ですが、ベネディクト名誉教皇様の1978年・枢機卿時代のご発言、フランシスコ教皇様による聖ペトロ広場での御聖体を顕示しての祝福(バチカンニュース記事)への言及もありました。

エゼキエル書の第47章1節における「神殿」は、真の神殿であるイエズス様の貫かれた聖心を象徴しているということは、今回の書簡を拝読してはじめて知りました。もしお時間があれば、原文をお読みになってみてはいかがでしょうか。(DeepLなどの精度の高い機械翻訳もありますし。)

追記英語翻訳版の記事もあります。アフリカはナイジェリアのカトリック系サイト「gospelbaze」(個人サイト?)に掲載されています。

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