第三章 第二戒 あなたの神である主の名をいつわりのためによぶな(出20・7、第5・11参照)
目次
1 第二戒が定められたわけ
これから説明する第二戒は、信仰と敬虔をもって神をあがめるように命じる第一戒に必然的に含まれている。なぜなら自分を敬うように命じるものはまたことばにおいても自分について最大の敬意をもって語るように求め、その反対を禁じるからである。マラキア書にある主のみことばも、このことを明示している。「子供は父をうやまい、しもべは主人をおそれる。だが私が父であるのなら、私に向けられるうやまいはどこにあるのか」(1・6)
しかし神は事柄の重大さから、聖性にみちたご自分のとおとい御名をあがめさせるための掟を別に定め、それをはっきりした明確なことばでお命じになったのである。
2 第二戒に関する説明の重要性
このことは司牧者にとって、この掟に関する一般的な説明だけでは決して十分ではなく、このような箇所では長く時間をかけて、この掟に関するすべてのことをはっきりと明確にまた正確に説明しなければならないことを証明するものである。またこのことにどれほど意を用いたとしても用いすぎることはない。なぜなら天使たちが栄光を帰するおん者(イ6・3参照)を呪うことを恐れないほど、誤謬のやみによって盲目になっている人がいるからである。かれらは与えられた掟によって制御されるどころか、毎日、いなほとんど毎時間あるいは各瞬間、ふらちにも神のご威光を損なおうとしている。あらゆることに誓いをもって断言したり、何をするにしても呪いを口にしながらする人を見たことのないものはいない。さらに、物の売買や何かの取引きをする人で、誓いをたてたりまたごくささいなつまらない事柄において理由もなしに幾度となく神の聖なる御名を呼んだりしないものはほとんどいない。したがって司牧者は、いっそうの配慮をもって、この罪がどれほど重く憎むべきものであるかについてしばしば信者たちに注意させなければならない。
3 第二戒によって命じられていることと禁じられていること
さて第二戒の説明においては、することを禁じられている事柄と、実行を命じられている事柄があることを明らかにすべきである。そしてこの両者は別々に説明すべきである。説明をより容易にするため、まず命じられていることを先にし、そのあと、禁じられていることを説明すべきである。まず、この掟が命じていることは、神の御名をあがめることと、宗教的態度をもって神の御名を用いて誓いをたてることである。つぎに、禁じていることは、だれも神の御名を軽んじてはならず、またみだりに呼んだり、偽りや間違いをもとにあるいは理由なしに神の御名によって誓ってはならないということである。
4 神の御名とは何か
神の御名をあがめるように命じている部分において、司牧者は信者たちに、神の御名を文字あるいはつづりとして、または単なる語としてとるのでなく、この語によって示されるものつまり唯一にして三位の神の全能と永遠のご威光を思うべきことを教えなければならない。このことから、神の御名の内容が神的な事柄ではなく、四つの文字にあるかのように考え、神の御名を書いてもそれを発音しようとしなかった多くのユダヤ人の迷信が根拠のないものであったことが容易に分かる。
さらに、「神の名を呼ぶな」と、単数で言われているが、それは神のあるひとつの名だけでなく、ふつう神に帰せられているすべての名をさしていると理解すべきである。神は、「主」(出15・3)、「全能の神」(黙19・15)、「万軍の主」(イ6・3)、「王の王」(黙19・16)、「力強いもの」(第7・21)という名で呼ばれ、また同じような他の名が聖書に出ているが、それら全部を同様にあがめなくてはならない。
つぎに、どのようにして神の御名に対する崇敬を表わすべきかを教えなければならない。なぜなら神への賛美をたえず口にすべきキリスト者にとって、救いのためにこれほど有益で必要な事柄を知らずにいることは許されないからである。
5 神を賛美する方法
さて、神の御名を賛美する方法は数多くあるが、これからのべる方法の中にすべての方法の効力も重要性も含まれるようである。
まずわれわれは、すべての人の前でわれわれの主なる神を大胆に告白することによって、またキリストをわれわれの救いの実現者として認め宣言することによって神を賛美するのである。
また、信心と尊敬をもって神がご自分の御旨を伝えるみことばに取り組み、それを熱心に黙想し、各自の立場あるいは職務の許すかぎりみことばを読んだり聞いたりして、これを学ぶことによって神を賛美する。
さらに自分の義務あるいは信心から神に賛美をささげることによって、また順境においても逆境においてもつねに神に特別の感謝をささげることによって、神の御名をあがめたたえる。ダヴィドは、「私の魂よ、主を祝せよ、そのすべての恵みを忘れるな」(詩103・2)と言っている。かれはまた多くの詩篇で、神に対するある特別な信心をこめて神の賛美を楽しく歌っている(詩10・13参照)。またヨブの忍耐の模範もある。かれは恐ろしい大災難に見舞われながらも、驚くべき不屈の精神をもって、神を賛美することを決してやめなかった(ヨブ1・21、2・10参照)。同様にわれわれも精神や肉体の苦痛を感じるとき、困窮や困難に出会うとき、すぐに全身全霊を神の賛美に向けなければならない。そしてヨブとともに、「主の御名は祝されよ」(ヨブ1・21)と言うべきである。
6 その他の方法
またわれわれは、悪から解放してくださるようあるいは悪に雄々しく耐えていくための強さと力をお与えくださるよう、信頼をこめて神のお助けを祈ることによっても神の御名をあがめる。神ご自身、そのようにすることを望んでおられる。「苦悩の日には私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私に光栄を帰するだろう」(詩50・15)。このような願いの有名な例は聖書の多くの箇所に出ている(詩8・7、27・44、118・5など参照)。
さらに、自分の誠実さを証明するために神を証人として立てる場合も、神の御名をあがめる。この方法は右にのべた方法とはひじょうに異なっている。先にのべた方法はその本性からしてすぐれており望ましいものであって、それに日夜、身を挺すること以上に人間にとって幸福で願わしいものはなく、ダヴィドは、「あらゆる時に主を祝せよ、主への賛美はいつも私の口にある」(詩34・2)と言っている。しかし誓いはよいものではあるが、ひんぱんに用いることは決してほむべきことではない。
7 誓いを濫用してはならない
このような区別はつぎの理由による。誓いは人間の弱さに対する薬として、またわれわれのことばを証明するための必要な手段として定められている。ところで体には必要でないかぎり薬を用いてはならず、それをひんぱんに使用することは有害であるが、それと同じように誓いも重大で正当な理由がないかぎり有益ではない。それをひんぱんに用いることは有益でないばかりか、大きな害をもたらすのである。
そのため聖クリゾストムスは、人々が誓いを用いるようになったのは、世界のはじめからではなく、世界が成長して悪が広く深く全地に広まり、その場所と秩序を保つものは何もなく、すべてが上下の別なく混乱に混乱を重ね、その最大の悪としてほとんどすべての人が憎むべき偶像崇拝を行うようになったのち、かなりたってからである、とはっきりと教えている。つまり人間の不誠実と不正があまりに大きくだれも容易には信用しなくなったので、神を証人として立てるようになったのである。
8 誓いにおける証人
第二戒のこの部分で信者たちに教えなければならないおもな点は、信仰をもって正しく誓いをたてるにはどうすればよいか、ということである。まず、誓いをたてるとは、それがどのような様式のことばでなされるにせよ、神を証人として立てるということである。つまり「神が私の証人である」と言うのと、「神にかけて」と言うのは同じである。
さらに、自分のことばを信用させるために、「神の福音書にかけて」、「十字架にかけて」、「聖人たちの遺物と名にかけて」など、またその他似たようなものを引き合いに出すことがあるが、これもまた誓いである。なぜなら誓いになんらかの権威あるいは力をもたらすのは、これらのもの自体ではなく、それらのものの中にご自分のご威光を現わしておられる神ご自身だからである。また、神の聖所になり(コ①3・16)福音的真理を信じ、それをあらゆる配慮をもって保ち、全人類、全世界に広めた聖人たちにかけて誓う場合も同様である。
9 呪いの誓いについて
呪いの時にたてる誓いも同様である。たとえば聖パウロは、「私は自分のことについて、神を証人に立てる」(コ②1・23)と言っている。つまりこの誓いによって、偽りを罰する神の裁きのもとに自分をおくのである。たしかにこのような様式をもつ多くのものは誓いとしての内容をもっていないと言えるが、しかし誓いについてのべたことをこれらにもあてはめ、同じ原理と規則を適用するのは有益なことである。
10 誓いの種類について
誓いには二種類ある。そのひとつは宣誓的誓いと呼ばれ、とくに現在または過去の事柄についてあることをおごそかに断言する時にたてる。聖パウロはガラツィア人への書簡の中でこの誓いをたて、「神にちかって言うが私はいつわらない」(1・20)と言っている。
他のひとつは誓約的誓いと呼ばれるもので、脅しの場合の誓いもこれに属する。この種の誓いは未来のことについて、あることがたしかにおこると約束し断言するためにたてられる。ダヴィドがベトサベアに自分の主なる神にかけて誓い、かの女の子サロモンが王位を継ぎ、自分のあと王座につくと約束した時の誓いは(列①1・17参照)このような誓いであった。
11 正しい誓いのための条件
誓いのためには神を証人に立てるだけで十分であるが、それが正しく聖なるものであるためには多くのことが必要であり、これについて入念に説明しなければならない。聖ヒエロニムスによると、預言者イエレミアはその条件を簡潔につぎのように数えあげている。「あなたは生きる主に誓うに、真実、判断、正義をもってすべし」(イエ4・2ヴルガタ訳)。このことばには、すべての誓いを完全なものにする要素が簡潔に要約してのべられており、真実、判断、正義がそれである。
12 真実をもって誓うこと
したがって誓いのための第一の条件は真実である。誓う事柄は真実でなければならず、また誓う人もそれが真実であると考えているべきであって、無謀にあるいは不確かな推測をもとに誓うのではなく、確実な証拠をもとに誓わなければならない。誓約的誓いにおいても全く同じような真実が要求される。すなわちあることを約束する人は、時が来たならば約束したことを実際に果し、実行するという決意がなければならない。ところで正しい人ならば、だれも神の聖なる掟または御旨に反すると思われることは決して約束してはならない。しかし約束したり誓ったりできることでいったん約束したことは決して変えてはならない。さもなければ、約束に従って約束事を実行できないほどの状況変化があった場合は別として、神の不満と怒りを買うことになるであろう。ダヴィドは、「友に誓ったら、誓いを破らず」(詩15・5)と言って、誓いには真実が必要であることを教えている。
13 判断をもとに誓うこと
つぎに判断が必要である。考えなしに無謀に誓うのではなく、十分慎重に考えた上で誓わなければならない。したがって誓いをたてるまえに、まずその必要があるかどうかを考え、また事柄全体から見て誓いが必要であるか否かを綿密に検討しなければならない。さらに時、場所、その他それをとりまく状況についても考慮すべきである。憎悪や愛情あるいはなんらかの心の乱れからではなく、事柄自体の内容および必要性に基づいてなすべきである。このような配慮や注意を怠るならば、その誓いは必ずや早まった、無謀なものになるであろう。何の理由もなく無思慮に、悪習に従って、ごくささいなそして無用な事柄について誓う人々の誓いは、そのようなものである。このような誓いはいたるところで、毎日、商売人の間で見られる。かれらはできるだけ高く売るためあるいはなるべく安く買うため、商品を高く評価したりあるいは低く見積ったりするために、誓うことをためらわない。
このように、誓いには判断あるいは賢明さが必要であるが、子供はまだ十分に物事を見、判断する年令に達していないので、コルネリオ教皇は、青年期まえの子供つまり十四才以下の子供に誓いを求めてはならないと決定したのであった。
14 正義をもって誓うこと
さいごの条件は正義で、これはとくに約束事において必要である。したがってだれかが、ある不正なことあるいは不徳義なことを約束した場合、かれは誓いをたてることによって罪をおかし、約束したことを果すことによって、さらに罪を重ねる。その一例として、福音書に見られるヘロデの場合をあげることができる。かれは無謀にたてた誓いにしばられて、踊りのほうびとして洗者ヨハネの首を娘に与えたのであった(マル6・21~28参照)。また使徒行録にあるように、パウロを殺すまでは何も口にしないと誓ったユダヤ人の誓いも、そのようなものであった(23・12参照)。
15 誓いが許される場合
以上の説明から、これらすべてのことを守り、求められる条件を助けとして誓いをたてる人は安心して誓うことができることは全く疑いない。このことは多くの証拠をあげて容易に証明できる。実際、純粋で聖なる神の掟はつぎのように命じている。「あなたの神である主をおそれ、礼拝し、その御名によって誓いをせよ」(第6・13)。またダヴィドは、「かれ(主)によって誓うものは誇りをえる」(詩63・13)と書いている。
さらに聖書は、教会の光である使徒たちが時として誓いをたてたことを伝えており、このことは聖パウロの書簡を見れば明らかである(コ②1・23参照)。
また天使たちも時として誓いをたてている。聖ヨハネは黙示録の中で、天使が世々に生きるお方にかけて誓ったことをのべている(黙10・6参照)。
さいごに、天使たちの主である神ご白身、誓っておられる(ヘ6・13参照)。神は旧約聖書の多くの箇所で、ご自分の約束を誓いをもって固めておられる。たとえばアブラハムやダヴィドに対する約束においてそうであった(創22・16、詩110・4など参照)。ダヴィドはつぎのように言っている。「主はそう誓われた。悔いることはあるまい。『あなたは永遠の司祭、メルキセデクの位にひとしく』」(詩110・4)。