聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

ローマ公教要理 秘跡の部 第三章 13-26 | 堅信の必要性・義務について、秘跡の効果

 秘跡の部 目次

第三章 堅信の秘跡

13 堅信の執行者について

 司牧者はこの秘跡の授与がだれに委ねられているかということも、また教えねばならない。(1) 預言者がいっているように「送られなかったのに走るものが多い」(エレミア23・21)のであるから、信者が真に堅信の秘跡と恩寵とを受けるため、堅信の真の、また合法的な執行者はだれであるかを知らせねばならない。さて聖書は、司教だけがこの秘跡の通常の執行者であると教えている。なぜなら使徒行録の中に読まれるように、使徒たちはサマリアの住民が神のみ言葉を受け入れたのを聞いて「ペトロとヨハネとを送り、そしてこの二人はサマリアに下って、人々が聖霊を受けるようにと祈った。その人々は、主イエズスのみ名によって洗礼を受けていただけで、まだそのうちの一人にも、聖霊は下っていなかったからである(使8・14-16)。この文からして、洗礼を授けたものは助祭でしかなかったため堅信を授けるなんらの権能をもたなかったこと、かえってこの聖職務はより上級の聖役者、すなわち使徒たちに保留されていたことがわかる。同じことは聖書がこの秘跡について記述している至る所で認められる(使8・19)。

訳注
(1) Conc. Trid. sess. 7, cap.3 et sess. 23 de sacram. Ordinis. can. 7;
〔旧〕教会法第782-785条参照。

14 諸教皇の証言

 われわれはこの真理を証明するための聖なる教父や教皇たちの証言にもなんらこと欠かない。教皇ウルバヌス(1)、エウゼビウス(2)、ダマズス(3)、インノチェンチウス(4)、レオ(5)の教令の中にきわめて明らかな証言を見いだすのである。聖アウグスチヌスはエジプトおよびアレキサンドリアの司祭たちが堅信を授けるという全くみだれた習慣を嘆いている。(6) この聖務職を司教に保留することがいかに理にかなったことであるかを理解させるため(1)司牧者はつぎのような例えを用いることができよう。建物を建てる場合、下級聖職者にあたる職人がセメント、石灰、木材、その他のすべての材料を準備し整えるのであるが、しかしその仕事を完成させるのは建築家のすることである。同様に霊的建物の仕上げともいうべきこの秘跡は、大司祭以外の何ものによっても授けられるべきではないのである。(7)

訳注
(1) S. Urabanus, in fine ep. ad omnes christ. 参照。
(2) Eusebius, ep. 3 ad Episc. Thusciae et Campaniae 参照。
(3) Damasus, circa medium ep. 4 ad Prosp. et cet. Episc. orthod. 参照。
(4) Innocentius, ep. 1 ad Veren. c. 3 参照。
(5) S. Leo Papa, ep. 88 ad Germaniae et Galliae Episc. 参照。
(6) S. Augustinus, in q. Novi Testam. q. 4 参照。
(7) Sum. Theol., III, q. 72, a. 11 参照。

15 堅信の代親と霊的親族関係について

 堅信においても、洗礼と同様に代父代母をたてる。もし剣闘士のわざをねるものが、どのような攻撃を加えて自分自身を傷つけられずに敵を倒すか、その技や勧告をもって教え込む人を必要とするならば、ましてや堅信によって与えられる有力な武器を帯び永遠の救霊を賭けた霊的闘技にのぞむ信者たちはなおいっそう、彼らを指導し教えるものを必要とするのではなかろうか。それゆえ、この秘跡の授与にあたって、代父代母をたてるのは最もなことである。そしてすでに洗礼の代父代母に関する説明の折りにのべたように、彼らは代父代母と結婚を禁ずる親族関係を結ぶのである。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第793-797条。Sum. Theol., III, q. 72, a. 10 参照。

16 堅信の必要性について

 信者たちはこの秘跡に授かるのに、しばしば早まりすぎたり、あるいは無頓着に怠ったり、のばしたりするようなことがある。(この秘跡を軽蔑したり、あざけったりするほどの不信心に陥っているものについては、ここでは問題にしない)それゆえ、司牧者は堅信を授からねばならぬものはだれか、何歳ころに授かるか、それを授かるためのふさわしい心構えはいかなるものであるかを信者たちに明らかにすべきである。まず彼らは堅信の秘跡が、それを授からねば救霊が不可能であるというほどに絶対的に必要ではないことを教えるべきである。しかし必要でないといっても、だれもそれを差し控えることはできない。かえって聖性にみち、神の賜物をきわめて豊かに分け与えるものに対していささかのなおざりも犯すことのないよう注意すべきである。神が万人の聖化のために定められたものは、また万人によって最大の熱心さを持って求めらるべきである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 8 参照。

17 受堅の義務について

 聖ルカは聖霊降臨の日の奇しき降臨を語ってつぎのようにいっている。「突然、天から激しい風が吹いてくるような音が聞こえて、彼らがすわっていた家にみちた」(使2・2)と。また少し後に、「すると、彼らはみな、聖霊にみたされ、霊がいわせるままに、いろいろの国の言葉で話しはじめた」(使2・4) とつけ加えている。さてこの家とは聖なる教会の前表であり象徴である。以上の聖書の言葉からして、この日をはじめとして授けられた堅信の秘跡はすべての信者のためであると結論することができる。このことはまた堅信の秘跡そのものからも容易に引き出される。実際、霊的に成長しキリスト教的完徳に向かう必要のあるものは、聖香油によって強められねばならない。そして信者はすべてそれを必要としている。すなわち時として望みどおりに行かぬことはあっても生まれたものが成長し完全な年齢に達するということは自然そのものの要求である。であるからすべての人の共通の母であるカトリック教会は、洗礼によって再生したものの中に完全なキリスト信者を作り上げることを熱望してやまない。そしてその効果はただ堅信の秘跡によって生ぜられるものであり、そこからしてこの秘跡がすべての人々が授からねばならぬ秘跡であることは明らかである。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第787条 参照。

18 何歳で受堅するか

 しかしここで注意すべきことは、洗礼を受けたものはすべて堅信を授かることができるとはいえ(1)、しかしまだ理性の働きをもたぬ子供にこの秘跡を授けることは適当ではないということである。それゆえ、十二歳に達するのを待つ必要はないとしても、少なくとも七歳になるまでのばすことはきわめて適宜なことである。なぜなら堅信は救霊に必要なものとしてではなく、むしろキリストの信仰のために戦わねばならぬわれわれに勇気と武器とを与えるために制定されたものであるが、理性の働きをまだもたない子供がこういった戦いに適しないことは自明のことだからである。(2)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第786条、 Sum. Theol., III, q. 72, a. 6 参照。
(2) 〔旧〕教会法第789条参照。

19 受堅のためのふさわしい準備

 以上のことからわかるように、適齢に達して、堅信を授かりその恩寵と賜物とをこうむろうと望むものは、信仰と信心とをもつことはもちろん、その犯した大罪を心から痛悔せねばならない。そこで司牧者は彼らにあらかじめ告白をさせるように努め、断食やその他の信心業による準備を勧め、断食して堅信を授かっていた初代教会のたたうべき習慣に従うよう勧めるべきである。そしてこのことは、もしも信者たちがこの秘跡の賜物とそのすばらしい効果とを悟っているならば容易に納得させうるであろう。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. ad 2 参照。

20 堅信の秘跡の効果について

 つぎに、堅信は他の秘跡と同じくそれを授かるものがなんらの妨げもおかないかぎり、新たな恩寵を与えるということを教えねばならない。(1) なぜなら前述したとおりこれらのしるしは、恩寵を意味すると同時に生ずる神秘的かつ聖なるしるしだからである。そこからして堅信はまた罪をゆるし消す。というのは恩寵が罪とともにあるということは想像することさえできないからである。しかしすべての秘跡に共通のこれらの効果のほかに、堅信はまず洗礼の恩寵を完全にするという特別の効果をもっている。洗礼によってキリスト信者となったものは、新生児に似てまだ幼く、か弱いままであるが、その後、聖香油の秘跡によって、肉欲、世間、悪魔のあらゆる攻撃に対して強められ、また彼らの心はわれらの主キリストのみ名を公言し、賛美しうるよう、信仰において強められるのである。(2) この秘跡が堅信とよばれるのは疑いもなくそのためである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 7 参照。
(2) Melchiades Papa, in ep. ad Episc. Hisp. 参照。

21 堅信という名のおこりについて

 ある人が無知によってまた不信心にも考えているように、この堅信という語は、幼児洗礼を受けたものが、成人した後、司教のもとに連れて行かれ、洗礼の時のキリストへの信仰を批准していたということからきたのではない。それでは堅信は要理教授となんら異ならないということになる。また彼らがいうような慣習があったというなんらの確かな証拠も見いだされない。むしろ堅信という語は、神が、洗礼によって生じはじめられたことをこの秘跡の力によってわれわれの中に堅め、われわれを完全なキリスト教的生活にまで導きたもうことからきているのである。(1) また堅信は恩寵を強めるだけでなくそれを増加させる。教皇メルキアデスは、つぎの言葉でそのことを確言している。「洗礼の水の上に下りたまい、それを有効ならしめ、人間の汚れなさを回復するための豊かな恩寵を賦与された聖霊は、いま堅信において恩寵を増加させる」と。(2) 最後に恩寵を単に増すだけでなく、感嘆に値するほどに増加させる。聖書はこのことを、「着せる」という表現をもっていい表わしている。すなわち主はこの秘跡について語られ、「私は、私の父が約束されたものをあなたたちにおくる。あなたたちは、上からの能力を着せられるまで、町にとどまりなさい」(ルカ24・49)とおおせられている。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can.1 de confirm. 参照。
(2) Melchiades Papa, in ep. ad Episc. Hisp.

22 使徒たちの中に表された堅信の効力

 もし司牧者がこの秘跡の神秘的効力を示そうと欲するならば、使徒たちにおこったことを(このことは信者の心を動かすために最も大きな力をもっていることは疑いない)説明すれば十分であろう。

 使徒たちはご受難以前、またご受難のその時も主が捕えられるのを見るやすぐに逃げ出すほど臆病でまた弱いものであった(マテオ26・56)。教会の頭および礎と定められ(マテオ16・18)、非常な勇気と心の寛大さを示していたペトロでさえ一人の下女の言葉に恐れ、一度ならず二度、三度と引きつづき、キリストの弟子であることを否定した(マテオ26・70、ヨハネ18・25)。そしてご受難の後もみなユダヤ人たちを恐れて家の中に引きさがり、閉じこもっていた(ヨハネ20・19)。ところが聖霊降臨の日、彼らは聖霊の力にみたされ、ユダヤ人だけでなく全世界に向かって、彼らにゆだねられた福音を大胆かつ全く自由に説教しはじめるほどのものとなり(使2・14-15、4・13)、「み名のためにはずかしめられるのにたるものとされたことを」(使5・41)最大の喜びとするほどになったのであった。

23 堅信はしるし・・・を与えるので、一度しか授けられない

 つぎにすでに洗礼の説明においていったように、また後で叙階の秘跡についてのべる時により長く説明するが、堅信もしるし・・・(character)を印刻する効力をもっており、そのためいかなる理由のもとにも二度、授かることはできない。もし司牧者がこの真理をしばしば、意を用いて信者たちに説明するならば、彼らはこの秘跡の尊厳さと有効さとをよく悟り、非常な熱心と信心とをもって、それを授かるようになるであろう。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 5 参照。

24 堅信の秘跡の儀式について

 つぎにこの秘跡の授与においてカトリック教会が用いる定式および儀式について簡単にのべておこう。(1) 司牧者は、定式一般についてすでにのべたところを想起するならば(2)、このような説明がどれほど有益であるか、すぐに理解できるであろう。堅信を授かるものはまず額に聖香油を塗られる。すなわちこの秘跡によって聖霊は信者の心の中に注がれ、彼らが霊的戦いを果敢に戦い、救霊の敵に抵抗しうるよう彼らの力と英気とを増大させるのである。額に塗油するのは、彼らがキリストのみ名を公然と宣言するにあたって恐怖や恥辱におじけることのないようにという意味である。というのは心の種種の感情は最もよく額に表れるからである。また徽章きしょうが兵士を他の人々から区別するように、受堅した信者をそうでないものから区別するためにしるし・・・を印刻するのであるが、しるし・・・が身体の中で最も目立つ部分にしるされるのは当然である。 (3)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 12 参照。
(2) 本書第一章秘跡一般について第十八項参照。当サイト上ではこちら
(3) Sum. Theol., III, q. 72, a. 9 参照。

25 いつ堅信を授けるか

 堅信をとくに聖霊降臨の日に授けるということは、神の教会に信心深く保たれてきた習慣である。それは使徒たちが聖霊の力によって強められ堅固にされたのがまさにこの日であり(使2・2-3)、またこの奇跡的事実を記念することによって、信者たちに聖なる塗油に含まれている奥義の偉大さに思い至らせるためである。

26 なぜ司教は受堅者のほほを打ち、彼らのために平安を願うのか

 塗油がなされ、堅信が授けられると、司教は手で軽く新受堅者のほほを打つ。これは受堅者が勇敢な闘技者として、キリストのみ名のために不屈の勇気をもってすべての敵に向かう決意をもたねばならぬことを悟らせるためである。最後に司教は、受堅者が今や神の恩寵の豊かさと人知を越える神の平安(フィリッピ4・7)とを受けたことを思い出させるために平安の祝福を与える。

 以上が堅信の秘跡について、司牧者が飾りけのない言葉や訓話で、心を燃えたたせうるような敬虔な熱情をもって、信者たちの心の奥深くに銘記させねばならぬ事柄の要約である。