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ローマ公教要理 秘跡の部 第五章 37-48 | 告白とは何か、告白の義務、告白の回数・内容

 秘跡の部 目次

第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕

37 告白は痛悔を完成する

 実にカトリック信仰の教えはつぎのように信じ、かつ絶えず認めている。すなわちだれかが、犯した罪を心から悲しみ、今後決して犯さないと決心するならば、たとえゆるしを得られるほどの十分な痛悔をもっていないとしても、正しい方法で司祭に罪を告白することによってそのすベての罪は鍵の権能をもってゆるされ消されるのである。そのことを聖なる教父たちは、教会の鍵によって天国への道が開かれるのであると表現している。これはまた、フロレンスの公会議〔が〕「悔悛の効果は罪からのゆるしである」と宣言しているところからしても疑いをいれないところである。(1)

 またつぎのことによっても告白がどれほどの利益をもたらすかを知ることができる。すなわちわれわれは、堕落した人々の素行を改めるためには、時として、その献身と忠告とをもって援助することのできる賢明で忠実な友人に、心の密かな思い、言葉、行ないを打ち明けるほど効果的なものは何もないことを経験によって知っている。同様に同じ理由から、罪の苛責に煩悶する人々にとって主キリストの代理者であり、最も厳しい永遠の沈黙を課されている司祭に、その霊魂の病気や傷を打ち明けることはきわめて有益であるといわねばならない。彼らはそこに単に現在の病をいやすだけでなく、将来ふたたび容易に同じ病や悪に陥ることのないように霊魂を強めるための天来の力をもった薬が調合されてあるのを直ちに発見するのである。

 また社会生活、および対人関係と深い関連をもつ他の利点も忘れてはならない。実際、キリスト教の規律から秘跡的告白を取り除くならば、やがて世界は隠れた恐るベき犯罪に掩われるであろうし、習慣的罪によって頽廃した人間は、よりずっと重い他の罪を恥じることなく公然と犯すようになるであろう。というのは告白する時の恥しさは罪を犯させる邪欲と放縱にいわばたずなをかけ、また邪悪を懲らしめるからである。(2)

訳注
(1) Conc. Florent., decretum pro Armenis, de sacramentis
(2) Sum. Theol., suppl., q. 7, a. 2-3 参照。

38 告白とは何か

 これらの利点をのべた後、司牧者は、告白の本質と効力とを知らせるべきであろう。ここでいう告白は、「鍵の力によってゆるしを受けるために、告解の秘跡においてする罪の自白である」と定義できる。(1) われわれが罪を言うのは「悪事をすることを喜ぶもの」(格2・14)のように自分の罪を誇示するためではなく、また閑な聞き手を楽しませるために語るのでもなくわれわれ自身を告訴し、仕返しをまつ意向のもとにするのであるから自由と定義されるのは至当なことである。

 われわれが罪を告白するのはそれによってゆるしを得るためであるが、この点において悔悛における裁判は普通一般の裁判と非常に異なっている。すなわち後者においては告白の苦しみや恥しさは罪からの赦免、または誤りのゆるしをもたらすことはない。言葉こそ違っているが、聖父たちも告白に同様の定義を与えているように思われる。たとえば聖アウグスチヌスは、「告白は治癒の希望のもとに、隠された病気をあばくことである」と言い(2)、聖グレゴリウスは「告白は罪の嫌悪である」と定義しているがこれら二つの定義は先にのべた定義の内容と容易に合致するものである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 3 et can. 6; Sum. Theol., suppl., q. 7, a. 1
(2) S.Augustinus, lib. 50 homil. 49

39 告白はキリストによって制定された

 しかし、ここで司牧者がとくに努めねばならぬことは、この秘跡がすべてをただわれわれの救霊のためになしたもうた主キリストによって、そのかぎりなきご好意と御慈悲とをもって制定されたことをいささかの躊躇なしに信者たちに教えることである。実際、主はご復活後、同じ場所に集まっていた使徒たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい、あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされないであろう」(ヨハネ20・22-23)とおおせられたのである。

40 聖書もそのように教える

 それゆえ、主が司祭たちに罪をとどめ、またはゆるす権能を与えたもうたとすれば、そのことからして司祭たちがこのことに関する裁き手と定められたことは明らかである。ラザルの復活の時、主が、彼をくるんでいた巻布を使徒たちに解かせたのもこのことをお示しになられるためであったように思われる。(ヨハネ11・44) 果たして聖アウグスチヌスは、この章句を説明して「いまや司祭たちは、罪をゆるすことによって告白者のためにより役だつことができるのである。すなわち主は復活させたばかりのラザルを使徒たちに解かせることによって司祭たちに解く権能が与えられていることを証明されたのである」といっている。(1) 主が「途すがら十人の癩病者をいやしたまい」(ルカ17・14)彼らに、司祭たちに見せに行き、彼らの決定に従うように命じたもうたのもこのことをお知らせになるためであった。

訳注
(1) S. Augustinus, de vera et falsa. poenetintia, cap. 16 et sermo 8 de verbis Domini.

41 主のみ言葉の意味

 それゆえ、主が司祭たちに罪をとどめあるいはゆるす権能をお与えになり、彼らをこのことに関する裁判者とされたことは明らかである。またトリエントの公会議が賢明にも注意しているように、十分に理解せずまた原因を知らない事柄に関しては公正な判決をくだすことも正義にかなった罰を課すことも不可能であるから、告白者は告白によってそのすべての罪を一つ一つ司祭に打ち明けるのが当然である。(1) それゆえ、司牧者はトリエントの公会議によって決定されまたカトリック教会によって常に伝えられたこれらのことを教えるべきである。実際聖父たちの著述を注意して読む人は至る所にこの秘跡がキリストによって制定されたこと、ギリシャ人が exomologesin または exagoreusin とよんだ秘跡的告白は福音的規定とみなさねばならぬという明らかな証言を見出すのである。(2) さらに旧約聖書の中に見られる、種々の異なった罪を償うために司祭たちが捧げていた様々の犠牲は、疑いもなく罪の告白のかたどりであるように思われる。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 5 et can. 7 参照。
(2) S. Augustinus, lib. 20 de Civit. Dei, cap. 9; S. Hieronymus, epist. 1 ad Heliod., Joan. Chrysost. lib. 3 de sacerdotio et hom. 5 de verbis Isaiae 参照。

42 告白に付随する種々の定式について

 救主ご自身が告白をお定めになったことを信者たちに教えると同時に、また教会はその権能によって、秘跡の本質には関係しないが、しかし秘跡の尊厳さをいっそうめだたせ告解者の信心を促がし、そして神の恩寵を容易に受けうるように準備させるある荘重な定式を加えていることにも注意させねばならない。実際われわれが司祭の足下にひれ伏し、頭をたれ、願いの手をさしのべて罪を告白するということは、秘跡にとって本質的なことではないが、あるいはこの秘跡の中に天来の力を認めさせ、あるいは最大の熱意をもって神の御慈悲を懇願し、せつに求むべきことをはっきりと悟らせる。

43 告白なしに罪はゆるされない

 しかし、告白が主キリストによって制定されたとはいえ、必ずしもそれを用いる義務はないというふうに考えてはならない。それどころか大罪のおぼえのある人は、秘跡的告白によらずしては、恩寵の生活に立ち返りえないことをよく納得させるべきである。主はこの秘跡を授ける権能を「天国の鍵」(マテオ16・19)とおよびになってそのことを示されたようである。ちょうど鍵を託された人の助けをからずしては、閉ざされた場所に入ることはできないように、主キリストが鍵をゆだねたもうた司祭たちに門を開いてもらわないかぎり、誰も天国に入ることはできない。(1) もしそうでないとすれば、教会における鍵の使用はむだであろうし、もし他に入口があるとするならば、鍵の権能を受けた人が、誰かが天国に入るのを禁じたとしても、それは無意味なことであろう。聖アウグスチヌスは明らかにこの真理を認め、つぎのように言っている。「否、だれも『私は神のみ前でひそかに悔悛をする。神は私が心の中で何をしているか私が知らないことを神はご存知である』と言わないように。なぜならその時、あなたたちが地上においてとくところは天国においてもとかれるであろう(マテオ18・18)ということは理由なく言われたことになろうし、鍵も理由なしに神の教会にゆだねられたことになるだろう」と。(2) 聖アムブロジウスもまたその悔悛に関する書の中で同じ考えをのべている。彼は、神だけが罪をゆるす権能をもっていると主張していたノヴァチアヌス派の謬説を反駁してこう言っている。「神の掟に従うものと、それに逆うものとは、どちらがよく神を敬い奉るであろうか? 神はわれわれにその役者に従うように命じたもうた。彼らに従う時、われわれは神おひとりを敬い奉るのである」と。(3)

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 17-20 参照。
(2) S. Augustinus, lib. 50, homil. 49
(3) S. Ambrosius, lib. 1 de poenitentia, cap. 2.

44 告白の義務について

 告白の掟が主キリストご自身によってもたらされ定められたことは少しの疑いも入れえないところであるが、つぎに、この掟に従わねばならぬ人は誰か、何歳位の時に、一年のいつごろそれを果たさねばならぬかを考察することにしよう。まず、「性別を間わずすべての信者は」という言葉ではじまるラテラン公会議の決定からして、誰も物心のつく年ごろ以前には告白の掟に義務づけられていないことは確かである。(1) またこの年齢は何歳と明確には決まっていない。しかし一般には善悪をわきまえ、なんらかの悪知恵をもつ年ごろから告白させると規定されているようである。なぜなら、この年齢に達したものは永遠の救霊について考えるべき時にきたのであり、大罪をもっているものはその罪を司祭に告白する以外に救霊の手段をもたないのであるから当然、告白の義務があるのである。告白すべき時期に関しては、教会は前述した決定をもってそれを規定している。すなわち教会はすべての信者に少なくとも年に一度告白すべきことを命じている。(2)

訳注
(1) Conc. Lateran. II, cap. 21 参照。
(2) 〔〕教会法第906条 Sum. Theol., suppl., q. 6, a. 2-3 参照。

45 何回ぐらい告白するか

 しかし、救霊のために必要と気づいた場合、あるいは死の危険にさらされたり、あるいは罪に汚されたままではふさわしく果たしえないこと、たとえば秘跡を授けたり、授かったりするような場合にはその度ごとに告白を怠ってはならない。またある犯した罪を忘れてしまいそうな場合にも同様にせねばならない。なぜなら告白による悔悛の秘跡をもって罪を消さないかぎり神から罪のゆるしをうることはできないのであるが、われわれは記憶している罪しか告白できないからである。

46 告白の内容について

 告白において遵守すべきことはたくさんあるが、それらの中のあるものは秘跡の本質に必要であり他のものは絶対的に必要でないのであるから、それらについて正確に説明せねばならない。そしてそれらの説明を容易にするための小冊子や注訳書には決して事欠かない。司牧者はまず告白を完全なもの、絶対的なものとするように教えるべきである。すなわちすベての大罪を司祭に打ち明けねばならない。といのは、神の恩寵を失わせずまたよりしばしば陥る小罪については敬虔な人々の実践がそれを証明しているように、それらを告白することはよいことでおり有益なことではあるが、たとえそれをはぶいたとしても罪ではなく、また他の方法でも贖うことができるからである。しかし致命的な罪は、たとえきわめて秘密なものでありまた天主の十戒の最後の二箇条によって禁じられた種類のものであっても、右にのべたように全部を一つ一つ列挙しなければならない。なぜならこの種の罪は往々にして、明らさまにまた公然と犯す罪よりもより深く霊魂を損なうからである。

 トリエントの公会議はこのように決定しており、また聖父たちの証言の中に見られるようにカトリック教会も常にこのように教えてきている。(1) 聖アムブロジウスはその罪を告白しないものは何人もその罪から義化されることはない」(2)と言い、聖ヒエロニムスは集会の書を注釈し、同じ真理を明白に確証してつぎのように言っている。「地獄の蛇がある人を密かにかみ、だれも気づかぬ中に罪の毒を彼に染み込ませる時、その人が黙ったままで悔悛をなさず、その傷を兄弟あるいは師に打ち明けようともしないならば、それをいやす言葉をもう長上は、その人の役にたちえないであろう」と。(3) また聖チプリアヌスは、迫害において棄教したものに関する論文の中で同じことを明瞭に教えている。すなわち「これらの人々は(訳注 棄教者)実際に犠牲を捧げたりあるいは棄教の証明書を受けるという罪を犯さなかったとはいえ、しかしそのような考えをもっていたのであるから悲しみをもって神の司祭に告白すべきである」と。(4) そしてそれはすべての教会博士たちの一致した声であり、教えである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 5 参照。
(2) S. Ambrosius, lib. de parad., cap.
(3) S. Hieronymus, in Ecclesiast., cap. 20.
(4) S. Cyprianus, de lapsis, circa finem.

47 罪の事情も告白すべきこと

 それゆえ、告白においては重大な問題におけると同様の配慮と注意とが必要であり、霊魂の傷をいやし、その心から罪の根を引き抜くために全力をつくさねばならない。実際、重い罪を告白し説明するだけでは十分でなく同時にそれぞれの罪に伴い、著しく罪の悪意を増減する罪の事情をも告白せねばならない。というのはそれだけで大罪となるような事情もあるからで、罪の事情を告白しなければならないのはそのためである。たとえばもしある人が殺人をしたとすると、殺された人が俗人であったか聖職者であったかを言わねばならない。同様に女と罪を犯した人は相手が婚姻の掟から自由の身であったか、あるいは人妻であったか、親族か、誓願によって神に身を捧げた人であったかを打ち明ける義務がある。これらの事情は神学者が言っているように第一の場合は姦淫、つぎは姦通、第三は近親相姦、第四は瀆聖というようにそれぞれ異なった種類の罪を構成するからである。また盗みはもちろん罪であるが、しかしたとえば十円盗んだ人の罪は、千円、二千円あるいはそれ以上を盗んだ人、とくに教会の献金を奪ったものの罪よりも軽い。時や場所の状況についても同様であるが、それについてはここに引用するまでもなく多くの本の中に周知の例を見出すことができるであろう。いまいったような事情はのべねばならないが、罪の悪さをたいして増大しない事情はそれを省略しても罪にはならない。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第901条 Sum. Theol., suppl., q. 9 参照。

48 大罪をかくした告白はしなおすべきこと

 しかし、前述したように告白は完全で絶対的であるべきで、もしだれかが故意に告白せず、あることは告白しても他の罪を省略する場合、彼は告白から何の効果も引き出さないばかりか、かえって新たな罪を犯すのである。このような罪の告白は真の秘跡としての告白とはいえない。むしろその告白者はこの告白をしなおし、偽りの告白によって悔悛の秘跡の神聖さを汚したことも告白すべきである。