聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

ローマ公教要理 秘跡の部 第二章 49-60 | 洗礼により与えられる恩寵、条件付きの洗礼

 秘跡の部 目次

第二章 洗礼の秘跡

49 とはいえ、受洗者には慰めは不足しない

 しかし苦悩にみちた現世の生活も、召されたお召しにふさわしく生きるものにとって(エフェゾ4・1)喜びや楽しみが不足しているのではない。実際、洗礼によってイエズス・キリストに接木された枝であるわれわれにとって(ヨハネ15・5)、自分の肩に十字架をとり、労苦に疲れることも危険におびえることもなく、頭たる救い主に従いつつ、神が招きたもう褒賞に向かって全力をあげて進み(フィリッピ3・14)、その御手から、あるものは童貞者の月桂冠を(黙14・4)あるものは教えと宣教の栄冠を、あるものは殉教者の棕梠の枝を、そしてあるものはその徳による褒賞を受ける(黙7・9)ということほど望ましく、慰めにみちたことがあるであろうか。そしてこれらのすべての輝かしい栄誉は、あらかじめこの涙の谷の競技場において自分を鍛え、戦いにおいて最後の勝利を得るものに与えられるのである。

50 罪と罰のゆるしのほかにあたえられる恩寵

 洗礼の効果に話をもどして、われわれはこの秘跡によって、悪の中で最大の悪から解放されるだけでなく、最もすぐれた善および賜物を豊かに受けるということを教えねばならない。われわれの霊魂は神の恩寵によってみたされて義者となり(ヨハネ一書3・7)神の子(ヨハネ1・12)救いの相続者(ロマ8・17)とされる。福音書に、「信じて洗礼を受ける人は救われ」(マルコ16・16)と書かれ、また使徒聖パウロが「水をそそぐこととそれにともなう言葉とによって教会を清め」(エフェゾ5・26)と確言しているとおりである。この恩寵とは、トリエント公会議が破門の宣告のもとに信ずべきこととして教えているように(1)、単なる罪のゆるしだけでなく、霊魂に内属する(in anima inhaerens)神的性質(qualitas divina)であり、いわばわれわれの霊魂のすべてのしみを消し、霊魂をより美しく、より輝かしくする光彩、光のようなものである。この真理は明らかに聖書に基づくもので、聖書はこのことを「われわれに神の愛がそそがれた」(ロマ5・5)といい、「われわれの世継ぎの前金」(エフェゾ1・14)とよんでいる。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 6, can. 11参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 69, a. 7 参照。

51 恩寵と同時に超自然的徳も注賦される

 この恩寵は、それと同時に神が霊魂に注入したもう最もすぐれた諸徳をともなっている。使徒聖パウロは、チトにこう書き送っている。「彼は、再生の洗いと聖霊の一新とによって、われわれを救われたのである。神はそれを救い主イエズス・キリストによって、豊かにわれわれの上にそそがれた」(チト3・5-6)と。聖アウグスチヌスは、この「豊かにそそがれた」という言葉はとくに罪のゆるしと諸徳の豊かさを示すものであるといっている。(1)

訳注
(1) S. Augustinus, lib. 1 de Bapt. parvul. c. 26 ; Sum. Theol., III, q. 69, a. 4 et 6 参照。

52 洗礼によってキリストに合体する

 またわれわれは洗礼によって、頭なるキリストの肢体として彼に一致し、結合させられる。(1) 身体の各部分がそれぞれに独特の作用を果たすための必要な力を頭から受けるように、義とされるすべての人々は主イエズス・キリストの豊かさから神的力と恩寵を受けてはじめて(ヨハネ1・16)キリスト教的信心のすべての義務を達成しうるものとなるのである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 69, a. 5 参照。

53 絶えずこれらの諸徳を強めていくこと

 われわれはこれほど豊かに諸徳によって飾られ強められていながらなお、たいへんな労苦と困難なしに善業を始めたり、少なくともそれを完成しえないのを奇異に思ってはならない。それは神が実際に善業を生ずるような徳を与えられなかったからではなく、洗礼の後でも、精神に対する肉身の激烈な争いが続けられているからである。もちろんこの戦いにおいてくじけたり、打ち負かされたりするのはキリスト信者にふさわしいことではない。むしろ神の御つくしみにより頼み毎日を正しく生きようと努力してはじめて、「すべてのまこと、すべての気高いこと、すべての正しいこと、すべての聖なること」(フィリッピ4・8)は容易なものとなり快いものになるのだという固い希望のもとに励まねばならない。しばしばこれらのことを考え、また喜び勇んで実行しよう。そうすれば「平和の神はわれわれとともにまします」(コリント後13・11)であろう。

54 洗礼はまた消えないしるしをあたえる

 以上のことに加えて、洗礼はわれわれの霊魂に決して消えることのないしるし・・・を与える。それについては、秘跡一般に関する説明の際にのべたので、ここでは別にとりたてて説明しない。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 9; Sum. Theol., III, q. 63; 本書第一章No.30 参照。

55 洗礼は二度と受けられない

 このしるし・・・の性質と力からして、教会は、洗礼を決して二度、授けてはならないと定めている。(1) 司牧者は、この点についてしばしば念入りに信者たちに説明しすべての誤謬を予防しなければならない。それに関して使徒聖パウロは「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ4・5)と教えている。また彼はローマ人に向かって、洗礼においてキリストとともに死ぬことによってキリストから受けた生命を注意して保つように勧め、その理由として「キリストにおいて死んだものは永久に罪に死し、生きるものは神のために生きる」(ロマ6・10)といっているが、それは明らかに、キリストが二度、ご死去になりえないのと同じく、われわれも洗礼によって二度と死にえないことをいっているように思われる。それゆえ、聖会はただ一度の洗礼しか認めないことを公言するのである。この教えが、ものの秩序からしてもきわめて道理にかなっていることは、洗礼が霊的再生であることを考えればわかる。自然の秩序によればわれわれは一度だけ生まれ、この世に生を受ける。母の胎内に再びはいることは不可能であると聖アウグスチヌスがいっているように(2)、ただ一度の霊的誕生しかありえず、いかなる場合にも洗礼は繰り返されえないのである。(3)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 11 et 13 参照。
(2) S. Augustinus, tract. 11 in Joann. 参照。
(3) つぎに説明するように条件づきの洗礼の場合は別である。

56 条件づきの洗礼は再洗ではない

 洗礼が施されたか否か確実でない場合に、「もしなんじが洗せられたりとせば、われは改めて洗せず。されどなんじもし洗せらざりしならば、われ聖父と聖子と聖霊とのみ名によりてなんじを洗う」と唱えて、聖なる洗い清めをすることがあるが、そのような場合、教会が洗礼を繰り返し授けたと考えてはならない。これは瀆聖的再洗ではなく、かえって条件づきで洗礼を授けているにすぎないのである。

57 条件づきの洗礼を無差別に授けてはならない

 司牧者は、ほとんど毎日のように、秘跡に対して罪を犯す機会となるいくつかの点に前もって注意すべきである。たとえば条件づきであるかぎりどんな人に授けても決して罪にはならないと考える人がある。そのような人は、だれかが子供を連れてきた場合、まず洗礼を受けたかどうかを少しも尋ねずすぐに、洗礼を授けたり、また秘跡が家で授けられたことを知っても、彼らは盛式の定式をもって条件なしに聖なる洗い清めを繰り返すのを躊躇しない。このようなことは瀆聖の行ないであり、教会の著作者たちが「不適格」(irregularitas)とよんでいるものを犯すことになる。アレクサンデル教皇は、この条件づきの洗礼を、受洗の如何について注意深く吟味した後、なおいくらかの疑問が残っている場合にかぎり認可しており、その他の場合には、たとえ条件づきであっても決して新たにこの秘跡を授けることは許されないのである。(1)

訳注
(1) Alexander Papa, lib. 1 decret. tit. de Baptis. 参照。

※ サイト管理人注: 条件付きの洗礼については、現行の教会法では第869条にて規定されています。

第869条 (1) 洗礼を受けたか否か、若しくは洗礼が有効であったか否かの疑義のある者については、慎重な調査の後にも、なお疑いが残る場合、条件付で洗礼を授けなければならない。
(2) 非カトリック教会共同体の受洗者には、条件付の洗礼を授けてはならない。ただし、洗礼の際使用された材料及び定句を吟味し、受洗者が成人である場合には本人の意思及び洗礼執行者の意向を勘案したうえで、洗礼の有効性が疑われる重大な理由がある場合はこの限りではない。
(3) 前第1項及び第2項の洗礼授与又は有効性について疑いが残る場合、受洗する者が成人のときは洗礼の秘跡に関する教理を教え、受洗する者が幼児の場合には、両親に洗礼の有効性が疑われる理由を説明した後でなければ、洗礼を授けてはならない。

(『カトリック新教会法典』有斐閣、p.479)

58 洗礼によってあたえられる最後の効果

 なお洗礼からわれわれが引き出す恩寵の最後のものは、すべての恩寵の終点になるもので、以前罪によって閉じたままになっていた天国の門をわれわれに開いてくれることである。(1) このことが洗礼によって行なわれるということは、主の洗礼の時におこったことからもわかる。聖書によるとその時天は開け、聖霊が鳩の形でキリストの上に降りたもうのが見られた(マテオ3・16)。これは、洗せられるものに聖霊の賜物が与えられ、また天の門が開かれたことを意味している。もちろん天国の光栄を享受するのは、洗礼直後ではなく、時が来た時、すなわち至福の生活と相容れない地上のすべての不幸から解放され、不死を享受すべくこの世の生命から脱け出すその時である。以上が秘跡の効力という点から見てすべての人々に同様に与えられる洗礼の効果である。しかしこの効果が、それを受けるものの心構えという点からは、各人の心の準備の如何によって多少の差をもって与えられることは確かである。(2)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 69, a. 7 参照。
(2) ibid., a. 8 参照。

59 洗礼の祈りと儀式の有益さについて

 洗礼に関する説明で最後に残されているのは洗礼の祈りや定式、儀式についての説明である。これらについて明白かつ簡単にのべることにしよう。使徒聖パウロが言語の賜物について「兄弟たちよ、私がいまあなたたちの所に来て異語を話しても、啓示や、知識や、予言や、教えを話さなかったら、なんの役にたつだろう」(コリント前14・6)といったことは、ほとんどそのまま洗礼の定式、儀式にあてはめることができる。実際、これらの儀式はこの秘跡において不可視的になされる事柄の外的しるしにすぎない。それゆえ、もし信者たちがこのしるしの意義および効力を知らないならば、儀式は大して役にたたない。そのため司牧者は、信者たちに、儀式は絶対に必要ではないとしてもきわめて大切であり、われわれの崇敬に値するものであることをよく理解させ、納得させるように努むべきである。このことはこれらの祈り、儀式を定めたもの、それは使徒たちであることに異論はないが、その使徒たちの権威をかりて、またそれらを彼らに用いさせた目的を説明することによって教えられるであろう。すなわち儀式を用いることによって秘跡は、よりいっそうの敬神の念と聖性の中に授与され、その中に含まれるすばらしい効果や神的賜物を、いわばわれわれの眼前におき、神の広大な恩寵をわれわれの心により強く刻みつけるのである。

60 洗礼の定式のあらまし

 司牧者は、洗礼の授与において教会が用いる儀式や祈禱を説明するにあたって、聞く人の記憶を助けるため、それを三つに分類すべきである。第一は洗礼盤に行く前に行なわれる儀式、第二は洗礼盤のところで行なわれる儀式、そして第三は洗礼の授与に続く儀式というふうに。