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ローマ公教要理 十戒の部 第七章 第六戒 1-13 | 姦淫について、肉欲に勝つためには、化粧や衣装に注意、霊的手段・節制・犠牲

 十戒の部 目次

第七章 第六戒 姦淫するな(出20・14、第5・18参照)

1 第六戒の説明において注意すべきこと

 夫婦のつながりはひじょうに固く、互いに理解し合いまた特別の愛をもって愛し合うこと以上に、両者にとって喜ばしいことはない。それとは反対に、互いに与え合うべき正しい愛が自分から他の人にうつっていくことほど苦しいことはない。したがって、大きな愛の力をもっている聖なるとうとい婚姻の一致が姦通によって破壊されることのないよう、人間の生命を殺傷から守る掟のあとに、姦通あるいは姦淫に関する掟がおかれているのは正しくまたふさわしいことである。

 しかしこの掟の説明において、司牧者はひじょうに注意深く、賢明でなければならず、婉曲な言いまわしをもって語り、ことばは多すぎるよりも少なすぎるくらいにすべきである。なぜならこの掟にそむくいろいろな事柄を広くくわしく説明することは、情欲を抑える代わりにそれをかき立てる材料を提供する結果になりかねないからである。

2 第六戒によって命じられていること

 さて、この掟には多くのことが含まれているが、司牧者はそれを省くことなくそれぞれの箇所で説明しなければならない。この掟は二つの内容を持っている。そのひとつは、はっきりと姦淫を禁じており、他のひとつは含蓄的に言われ、心と体の貞潔を守るように命じている。

3 姦淫について

 まず、禁じられていることから説明することにしよう。姦淫とは、自分あるいは他人がもっている、床をともにする権利を侵害することである。たとえば結婚している男が夫をもたない女と通じる場合、かれは自分の権利を侵害しており、結婚していない男が人妻と通じる場合、この姦淫によって他人の権利が侵害される。

 聖アンブロシウスや聖アウグスチヌスによると、姦淫を禁じるこの掟は、不道徳なもの、みだらなものすべてを禁じている。旧約聖書および新約聖書も同じように教えており、実際モイゼは、姦淫以外の他の情欲をも罰している。

4 いろいろな情欲

 創世の書には、自分の義理の娘に対するユダの態度がしるされている(38・24参照)。第二法の書にある、あの有名なモイゼの律法は、イスラエルの娘はだれもみこあそびめになってはならないと決めている(23・18参照)。さらにトビアは息子に対して「息子よ、あらゆる淫行から遠ざかれ」(卜4・13 ヴルガタ訳)とすすめ、集会の書は、「売春婦に目をとめることを恥じよ」(41・22)と言っている。

 福音書において主キリストは、人をけがす姦淫、淫行は、心から出るとおおせられている(マ15・19参照)。聖パウロは多くの厳しいことばをもって、しばしばこの罪を咎めている。「神の御旨はあなたたちが聖となることにある。あなたたちは淫行を避けよ」(テ①4・3)。「淫行を避けよ」(コ①6・18)。「淫行者と交わるな」(コ①5・9)。「あなたたちの中では淫行、いろいろなけがれ、情欲を口にさえもするな」(エ5・3)。「淫行するものも、……姦通するものも、男娼も、男色するものも……神の国を嗣がない」(コ①6・9)。

5 姦淫がとくに取りあげられるわけ

 姦淫をそれとして特別に取りあげ禁じているのは、それが他の不節制の罪に共通するみだらな行為であることのほかに、隣人だけでなく社会に対する不正の罪でもあるからである。また、他のみだらな不節制の行為を避けない人は、姦淫という不節制の罪に容易に陥ることもたしかである。したがって姦淫を禁じる掟が、体を汚すけがらわしいこと、みだらなことすべてを禁じていることはすぐに分かる。さらにこの掟は心におけるあらゆる情欲を禁じている。この掟は明らかに霊的なものだからである。さらに主はつぎのようなみことばをもって、それを教えておられる。「あなたたちが知っているように、『姦通するな』と教えられていた。しかし私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ」(マ5・27~28)。

 以上が、われわれの考えでは、司牧者が公けに信者たちに説明すべき事柄である。と同時に聖なるトリエント公会議が、姦淫の罪をおかしたもの、娼婦やめかけを囲うものに対して決定したことを、合わせて説明すべきである。それ以外の種々の淫行や情欲についての説明は避けるべきで、それらは時と場合に応じて各人に個人的に説明すべきである。

 つぎに、この掟によって命じられている事柄を説明することにしよう。

6 貞潔を守ること

 以上のとおりであるから、信者たちにあらゆる努力を払って貞節と節制を守り、体と精神のすべての汚れを清め、神をおそれつつ成聖の業をなしとげるよう(コ②7・1参照)教え、はげまさなければならない。貞潔の徳は、このきわめてすぐれた神的な徳を修道生活をもって守る人々においてとくに光を放つのであるが、しかし独身生活をする人々、また結婚生活をしている人々でも、禁じられた情欲に染まらず自分を清く完全に保つのがふさわしいということに注目させるべきである。

7 肉欲に勝つためには

 聖なる教父たちは情欲を抑え肉欲をこらしめるための多くの方法を教えているが、司牧者はそれを正確に信者たちに伝えるように努め、入念に説明すべきである。その方法のひとつは思考によるものであり、他のひとつは行為によるものである。

 まず思考による方法について言うと、それはとくに、この姦淫の罪がどれほど恥ずべきものであり有害なものであるかを理解することにある。それを悟ることによってわれわれは容易にこの罪をいみ嫌うようになるであろう。さてこの罪が有害なものであることは、この罪をおかす人はそのため神の国から追放されることによって理解できる(コ①6・9、ガ5・19~21、黙22・15参照)。そしてこの追放はすべての悪の中で最大の悪である。

 たしかに、神の国からの追放ということはすべての大罪に共通のものである。しかし姦淫の罪に固有なことは、この罪をおかす人は自分の体に対して罪をおかすことである。このことは、聖パウロのつぎのことばから分かる。「淫行を避けよ、人間が犯すことのできる罪はみな体の外にある。しかし淫行者は自分の体を犯す」(コ①6・18)。体をおかすものは、体のもつ神聖さをけがすのである。これについてかれは、テサロニケ人への書簡でこう書いている。「実に、神の御旨は、あなたたちが聖となることにある。あなたたちは淫行を避け、おのおのがうつわを神聖に尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならない」(テ①4・3~5)。

 さらにいっそう罪深いことに、キリスト者がみだらな行いをもって娼婦に身をまかせる場合、かれはキリストの肢体を娼婦の肢体にするのである。聖パウロは、「あなたたちの体はキリストの肢体であることを知らないのか。それなのに、私はキリストの肢体をとって、娼婦の肢体にしてよかろうか、決してそうはしない。娼婦につく者は、それとひとつの体になることを知らないのか」(コ①6・15~16)。

 また同じ聖パウロによると、キリスト者は聖霊の聖所であり(コ①6・19参照)、それをけがすことは、そこから聖霊を追い出すことになる。

8 姦淫は他人の権利をおかす

 なお、姦淫の罪は大きな不正を伴う。実際、聖パウロが教えているように(コ①7・4参照)、婚姻によって結ばれているものは互いに自分を相手に渡し、双方とも自分の体に対する権能も権利ももたず、かえってある契約をもっていわば奴隷のきずなをもって互いに結ばれ、夫は妻の意志に、また反対に妻は夫の意志や命令に自分を合わせなければならない。したがって、二人のうちのどちらかが相手の権利のもとにおかれている自分の体を、それと一致している相手から引き離すならば、それはたしかに不正なことであり、罪深いことである。

 また悪評をたてられるかもしれないという恐れは、命じられている事柄を実行するよう人々を激しくかりたて、また禁じられている事柄を避けさせるのであるから、姦淫は人間に不道徳の烙印を押すものであることを教えるべきである。聖書にはつぎのように言われている。「姦通するのは正気のさたではない。それをするのは、自分の滅びを望んでいる人だけだ。その人は打ちたたかれ、不名誉をにない、その恥辱は決して消えない」(格6・32~33)。

9 姦淫の罪に課される罰

 また罪の大きさはそれに課せられる罰の厳しさから容易に分かる。ところで旧約における主の掟によると、姦通者は石殺しにされるのであった(レ20・10参照)。さらにシケム人の場合のように、ひとつの淫行の罪のために、その罪をおかした人だけでなく町全体が滅ぼされたことが聖書にはしるされている(創34・1~31参照)。聖書にはそのほかにも多くの神罰の例が伝えられており、司牧者は人々に罪深い淫行を避けさせるため、それらを用いるべきである。たとえばソドマとその周辺の町の滅亡(創19・4~29参照)、砂漠でモアブの娘たちと姦通したイスラエル人の罰(民25・1~18参照)、ベンヤミン人の滅び(判20章参照)がある。

 姦通者は死を免れたとしても耐えがたい苦痛や苛責を避けることはできず、それに悩まされる。かれらは精神的盲目という、もっとも恐しい罰を受け、神のこと、評判や尊厳さ、子供たちのこと、ついには自分の生命のことさえ考慮しなくなる。こうしてかれらはあまりにも堕落し無能なものになり、重要なことは何もまかせることはできず、また責任を伴ういかなる仕事にも適さなくなるのである。その例はダヴィドやサロモンに見ることができる。前者はあれほど優しかったのが、姦通の罪をおかしてからは別人のように残虐な人になり、自分に対してもっとも功績のあったウリアを死なせようとした(サ②11、12章参照)。後者は女たちとの淫行に身を全くゆだね、神の真の宗教から遠ざかり、ほかの神々を拝むようになった(列①11章参照)。したがって預言者ホゼアが言っているように、この罪は人間に正気を失わせ、その心を盲目にするのである。(ホ4・11~12参照)。

10 避けるべきこと

 つぎに行為による方法についてのべることにしよう。その第一は安逸を避けることである。エゼキエルによると、ソドマの男たちは安逸をむさぼったために、あのもっともけがらわしい極悪な淫行の罪に急速に落ちていったのであった(エゼ16・49参照)。

 つぎに、とくに酩酊をさけなければならない。預言者イエレミアは、「私はかれらを食べ飽かせたが、かれらは姦通を行った」(イエ5・7)と言っている。実際、満腹し満足すると淫行に走る。このことを主はつぎのようにおおせられた。「暴飲暴食や飲み物の酔い、生活のわずらいに心が鈍らないように」(ル21・34)。そして聖パウロは、「ぶどう酒に酔うな、それは淫乱のもとである」(エ5・3)と言っている。

 しかし普通、心を淫行にかりたてるのは目である。主が「右の目がつまずきになるなら、抜き出してすてよ」(マ5・29)とおおせられたのもそのためである。預言者たちも同じことについて多くのことを教えており、ヨブの書にはつぎのように言われている。「私は自分の目と契約を結んだ。どんな娘にも目を止めないと」(31・1)。また、目から起こった悪の例は多く数えきれないほどである。たとえばダヴィドがそうであり(サ②11・2参照)、シケムの王もそうであった(創34・2参照)。またスザンナを中傷した老人たちもそうであった(ダ13・8参照)。

11 化粧や衣装に注意すること

 またあまりはでなよそおいも人々の目をひき、しばしば淫行の大きな機会となる。そのため集会の書は、「かわいい女を見つめるな」(9・8)と忠告している。女性は化粧に夢中になりがちであるから、司牧者がかの女たちに節度を保つようにすすめ、時として叱責したとしても、それは見当違いなことではない。これについて聖ペ卜ロはつぎのようなきわめて厳しいことばをのべている。「あなたたちは髪を編み、金の輪をつけ、服装をよそおうような、外面ばかりの飾りをつけるな」(ペ①3・3)。同様に聖パウロも、「装身具は質素に慎み深くし、編んだ髪や金や真珠や高価な服で飾るな」(ティ①2・9)と言っている。実際、金や真珠で身を飾った多くの女たちは、心と体の真の飾りを失ったのであった。

 さらに、淫行への刺戟ははでな衣装によってももたらされるのがつねで、またいかがわしいみだらな話によっても与えられる。みだらな談話は燃えるたいまつを近づけるようなもので、若い人々の心の情欲に火をつける。「悪いつき合いは良い風俗を損なう」(コ①15・33)と聖パウロは言っている。

 刺戟的で放縦な歌、ダンスもこのような刺戟を大いに与えるものであり、注意してそれらを避けなければならない。

 またみだらでわいせつな読み物、みだらなものを描いた絵画があり、そのようなものは若い人々の心を淫行へとかり立てるのに大きな影響力をもっているのであるから、それだけに避けなければならない。しかし司牧者はとくに、聖なるトリエント公会議が信仰と敬神の念をもって定めた事柄を熱心に守るようにさせるべきである。以上のべた事柄を、深い努力と配慮とをもって避けるならば、淫行のほとんど全部の材料は取り除かれる。

12 霊的手段をとること

 しかし情欲を抑制するためにもっとも効果があるのは、告解と聖体の秘跡にひんぱんに近づくこと、それと同時に神に対して信仰に縊れた絶え間のない祈りをささげること、施しや断食を実行することである。なぜなら貞潔は神のたまものであって(コ①7・7参照)、神はこれを正しく願う人に拒まれることはなく、またわれわれの力以上の試みにはおあわせにならないからである(コ①10・13参照)。

13 節制と犠牲にはげむこと

 なお、断食だけでなく、それもとくに教会が定めた断食によるだけでなく、徹夜や聖なる巡礼およびその他の犠牲の行為をもって体を鍛え、感覚的な欲求を抑制すべきである、実際、節制の徳はこれらのこと、あるいはこれに類似した事柄によって現わされるのである。その意味で聖パウロは、「力士はみな、万事をひかえ慎しむ。それは朽ちる栄冠のためであるが、私たちは朽ちない栄冠のためである」(コ①9・25)と言い、そのすぐあとで、「私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは、他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである」(コ①9・27)とつけ加えている。また別のところでは、「よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな」(ロ13・14)と言っている。