第九章 第八戒 あなたの隣人に対して偽証するな(出20・16、第5・20参照)
目次
1 第八戒の重要性
たえずこの掟について説明し、この掟のもたらす義務を思い起こさせることがどれほど有益でまた必要であるか、それを教えようとして聖ヤコボはつぎのように言っている。かれは、「ことばを踏みはずさない人は完全な人である」(ヤ3・2)と言い、また、「舌も小さい部分であるが、大事をすると誇ってよい。大きな森を燃やすために、ほんの小さな火で足ることを考えよ」(ヤ3・5)と言い、このあとも同じ意味のことをのべている。
この聖ヤコボのことばは二つのことを教えている。まず、舌による害悪がひじょうに広がっていることである。このことは、「人はみな、信頼に値しない」(詩116・11)という預言者のことばによっても確認できる。つまりこの罪はすべての人がおかしている唯一の罪であるとも言える。つぎに、この罪から無数の悪が生じ、悪口を言う人の過ちのためにしばしば、財産、名誉、生命、救霊が失われる。これは、侮辱されそれを堪忍できず、かといって復讐もできない人々にとってそうであり、また他人に無礼を働きながら、間違った恥じらいや誤った考え方から気おくれして、侮辱された人に償いをしえない人々にとってもそうである。したがってここで、他人に対して偽証しないというこの健全な掟のためにどれほど深く神に感謝すべきかを信者たちに教えなければならない。われわれはこの掟によって他人を害することを禁じられているだけでなく、さらにこの掟が遵守されることによって、われわれも他人による害から守られるからである。
2 第八戒の内容
これまでの掟の説明の順序と方法に従ってゆくことにして、まずこの掟では二つのことが命じられていることに注意しよう。そのひとつは、偽証してはならないという禁令で、他のひとつは虚偽、偽りをなくし真理にのみ基づいて言い、行動しなければならないという命令である。このことを聖パウロはエフェゾ人あての書簡で、つぎのように言っている。「真理を宣言し、万事愛においてかしらであるキリストに成長するだろう」(4・15)。
3 偽証とは何か
まず偽証とは、裁判あるいはそれ以外において、それが善良な人のためであれあるいは悪人のためであれ、他人について偽りを断言することであるが、この掟の第一の内容においてとくに禁じられている偽証とは、裁判において誓いをたてて偽りを言うことである。証人が神にかけて誓うのは、神の御名によって証言する人のことばはそれだけの権威と重みをもつからである。同時にこのような証言は危険でもあるので、特別に禁じられているのである。実際、誓いをたてた証人は、法によって認められている例外を除いて、あるいはかれらの不正や悪意が明らかである場合を除いて、裁判官自身もかれらを退けることはできないのである。それはとくに、どのようなことも二、三人の証言によって立証される、と神の掟に定められているからである(第19・15、マ18・16、ヨ8・17参照)。しかし信者たちにこの掟をよく理解させるため、まず、偽証をもってかばってはならないと言われている「隣人」とはだれか、それについて説明しなければならない。
4 偽証における隣人とは誰か
「隣人」とは、主キリストの御教えから分かるように(ル10・29~37参照)、われわれの援助を必要とするすべての人のことで、それは近くにいる人かも知れないし、あるいは他人、あるいは同国人、あるいは外国人かも知れないし、あるいは友人または敵であるかも知れない。実際、敵に対しては何か偽りを証言できると思ってはならない。神と主キリストは、敵をも愛するようにお命じになっているからである(マ5・44参照)。
さらに、各自は自分自身にとってもある意味で隣人であり、したがって自分に対しても偽証することは許されない。このような罪をおかす人は自分の名誉を傷つけ自分を辱しめ、こうして自分だけでなく、自分が肢体となっている教会をも傷つける。それは自殺する人が社会に害をもたらすのと同じである。聖アウグスチヌスもこのことを教え、つぎのように言っている。「掟を正しく理解していない人々は、掟は『隣人に対して』と言っているのであるから、自分自身に対して偽証人となることは禁じられていないと思うかもしれない。しかし自分自身に対して偽証するものはこの罪をおかすことはないと考えてはならない。隣人に対する愛の基準は自分白身に対する愛だからである」。(1)
訳注
(1) S. Augustinus, epist. 52 ad Maced.
5 他人のためを思ってする偽証も許されない
偽証によって隣人に害を与えることが禁じられているのであるから、その反対にわれわれと血縁または宗教によって結ばれている人々の利益と便宜のためならば偽証してもよいと考えてはならない。それがだれのためであれ、うそ、偽りを言ってはならず、まして偽証してはならない。そのため聖アウグスチヌスは聖パウロの考えに基づき、偽りに関するクレスケンチヌスあての書簡の中で、偽りはたとえたれかにうわべだけの賞賛を与えるものであっても、偽証の中に数えるべきであるとのべている。聖アウグスチヌスは、聖パウロの、「その上、私たちは神の偽証人となるわけである。なぜなら、私たちは神に誓って、神がキリストをよみがえらせたと証明したからである。しかし死者がよみがえらないなら、神はキリストをよみがえらせなかった」(コ①15・15~16)ということばをあげ、「使徒は、たとえキリストの光栄のためになるとしてもそれが偽りであるならば、それは偽証であると言っているのである」(2)とのべている。
訳注
(2) S. Augustinus, epist. ad Cresc., cap. 12, 13, 14
6 偽証によってもたらされる害悪について
ところである人の肩をもつことによってほかの人に害を与える結果になることがしばしばある。時としては裁判官を誤らせ、偽証人にだまされた裁判官は正義に反し、不正な判決をくださざるをえなくなる。
また時としてある人の偽証によって裁判に勝ち、しかも罰を受けることなくそうした人は不正な勝利にこおどりして、常習的に偽証人を買収してこれを使い、そのおかげで望むことは何でも達成できると思い込むようになる。偽証は偽証人自身にとってもきわめて有害である。かれが偽証して助け救い出した人からは、偽りを言い、にせの誓いをたてるものとされ、またかれ自身は偽証が成功したのをみて、日ごとに不敬虔と無謀さをますます重ねるようになり、それが習慣になってしまうのである。
7 この掟を守るべき人々
このような証人はうそ、偽りを言い、偽りの誓いをたてることを禁じられているが、それと同じく原告、被告、保護者、親族、代理人、弁護人、要するに裁判に関係しているすべての人にも禁じられている。
さいごに神は、裁判だけでなくそれ以外でも、他人に迷惑や損害をかけるようなあらゆる証言を禁じている。レヴィの書はこの掟をくり返ししるし、「盗むな、詐欺をするな、近いものに偽りを言うな」(19・11)と言っている。したがってこの掟によって神があらゆる偽りをしりぞけ断罪しておられることは明らかである。そのことをダヴィドは、つぎのようにはっきりと証言している。「あなたはうそをつく者を亡ぼす」(詩5・7)。
8 悪口について
第八戒では偽証だけでなく、人の悪口を言う憎むべき欲望、悪癖も禁じられている。この疫病からどれほど多くの重大な不都合や悪が生じるかは信じられないほどである。他人についてひそかに、悪しざまに、侮辱をこめて語るこの悪習を、聖書はいたるところで断罪している。ダヴィドは、「ひそかに兄弟を讒訴する者を、私は打ち亡ぼす」(詩101・5)と言い、聖ヤコボは、「兄弟たちよ、互いに悪口を言うな」(ヤ4・11)と禁じている。
しかし聖書は掟を示すだけでなく、例をあげてこの罪の大きさを明らかにしている。たとえばアマンはこの罪を捏造して、アハシュエロスをそそのかし、ユダヤ人全部を皆殺しにさせようとした(エス三章参照)。聖書の歴史では、このような例は枚挙にいとまがない。司牧者は信者たちにそれらを思い起こさせ、かれらをこの恐しい罪から遠ざけなければならない。
9 中傷について
人を傷つけるこの罪の深さを完全に把握するためには、人の評判は讒言だけでなく、小さな罪を実際以上に大きく表現することによっても損われることを知っておくべきである。ある人がひそかに何かの罪を犯し、それが知れるとかれの評判に重大な悪い影響をもたらす場合、それを必要のない場で、必要のない時に、必要のない人に知らせる者は、まさに中傷者であり讒言者である。
中傷のうちもっともひどいのは、カトリックの教えとその説教者たちに対する中傷である。また邪教や誤謬の教師たちをほめそやす人々も同様に重い中傷の罪をおかす。
10 悪口や中傷を聞く人も罪をおかす
また中傷する人や悪口を言う人に耳をかし、かれらを咎める代わりに喜んでその話に相槌を打つ人も、話し手と同じ罪をおかすのである。(聖ヒエロニムスや聖ベルナルドが書いているように)中傷する人とそれを聞く人とは、どちらがより罪が重いか簡単には言えない。なぜなら中傷する人もそれを聞く人がいなければそうしないからである。(3)
また策を弄して人々の一致をみだし互いに害を及ぼさせる人々、作り話をもち出して不和の種をまくことを楽しみにし深い一致や結合を破壊し、きわめて親しかった友を不倶戴天の敵とし武器をとるまでに至らしめる人々も、同じようにこの掟にそむく。神はこの害悪を憎まれ、「あなたの民の間で、讒言をまき散らしたり……偽りの証言をするな」(レ19・16)とおおせられている。サウルの心をダヴィドから引き離し、かれに対してけしかけていたサウルの従者たちの罪も、そのようなものであった(サ①22・9~10参照)。
訳注
(3) S. Hieronymus, epist. ad Nepot.; S.
11 追従を使うこと
さらに、追従を使う人、また追従や上べだけのほめことばをもって他人にへつらい相手の気持や考えにとり入り、恩恵、金銭、栄誉を得ようとする人々も、この第八戒にそむく。かれらについて預言者イザヤは、「良いことを悪いと言い、悪いことを良いと言うもの」(イ5・20)と言っている。ダヴィドはそのような人々をわれわれの生活から締め出し追放するようにすすめ、「正しい者が愛をもって私を打ち、叱り、私の頭が悪人の油で塗られるように」(詩141・5)と言っている。たしかにかれらは決して隣人の悪口は言わないが、しかしその罪までもほめあげて生涯その罪の中にとどまる原因をつくり、かれに大きな害を与えるのである。
追従やへつらいのうちもっとも罪深いものは、相手の不幸や破滅をめざして用いられるものである。たとえばサウルはダヴィドに対して怒り、フィリステ人の手で殺させようと思いかれに追従を使いつぎのように言っている。「私の長女メロブがここにいる。嫁として与えよう。ただしあなたは私のために勇ましくふるまい、主の戦いを戦え」(サ①18・17)。またユダヤ人たちは主キリストに対して、底意のあるつぎのようなことを言っている。「先生、あなたが真実な方で、真理によって神の道をとかれることを……私たちは承知しています」(マ22・16)。
12 瀕死の病人に死を告げることについて
また、命にかかわる病気で死期も近いのに、病人に向かって死の危険は全くないと言ったり、楽しく陽気にするようにすすめたり、告解をあまりに惨めなこととして避けさせたり、病人が自分のおかれている切迫した危険について配慮し考えることから心を全くそれさせようとする友人、近親者、親族の言行はきわめて有害である。
したがってどのような種類の偽りも避けなければならず、とくにだれかに害を及ぼすような偽りはそうである。また宗教に対する偽りあるいは宗教に関する偽りは、偽りと同時に不敬虔の罪を伴うのである。
13 冗談や方便で使う悪口について
さらに、「中傷的」な文書でなされる悪口や非難あるいはそれに類する侮辱もひどく神にそむく。
また冗談あるいは方便でうそをつき、人をだますことは、それが何の損得と関係ないとしても、決してふさわしいことではない。聖パウロは、「偽りをすてて、おのおの隣人に真実を語れ」(エ4・25)と忠告している。なぜならこのようなうそからより罪深いうそへと容易にうつり易く、また冗談のうそからうそをつく習慣に陥り、かれはまじめでないという噂が広まり、自分のことばを信用させるためにいつも誓いをたてねばならなくなるからである。
さいごに、この掟の第一の内容は見せかけを禁じている。つまりことばにおける見せかけだけでなく、行為における見せかけも罪につながっている。そのようなことばおよび行為は、その人の心にあることの現れであり、しるしであるからである。そのため主キリストはしばしばファリザイ人たちを咎めて、かれらを偽善者と呼んでおられる(マ23章参照)。
以上われわれは第八戒が禁じている事柄についてのべた。つぎに、この掟をもって抻がお命じになっていることについて説明しよう。