第四章 第三戒 安息日を守り、それを聖とせよ――
六日間労働し、自分のすべての仕事をしてもよい。しかし七日目は、あなたの神である主にささげられた安息日である。そのため、なんの労働もするな。あなたも、あなたのむすこもむすめも、あなたの男どれいと女どれいも、あなたの牛もろばも、あなたの家畜もみな、あなたの町に住んでいる外国人も、やすまなければならない(第5・13~14)。六日間で神は天と地と海、そしてそこに住むすべてのものをお造りになり、第七日目にそのみわざを終えて安息された。そこで神は第七日目を祝して聖とされた(創2・2~3参照)。
目次
1 第三戒によって命じられていること
第三戒ではわれわれが神にささげなければならない外的礼拝が、当然の順序に従って命じられている。実際この外的礼拝はいわば第一戒の結果である。われわれは内心において信仰、希望をもってあつく礼拝するお方に対し外的な礼拝と感謝をささげずにはいられないのである。ところが人間的な事柄に取り紛れている人は、この務めを容易には果すことができないので、それを都合よく果せるように、一定の時を定められたのである。
2 信者たちにこの掟を思い出させるべきこと
したがってこの掟はすばらしい果実と利益とをもたらす性質のものである。そのため司牧者はこの掟を説明するために最大の努力を払わなければならない。かれの熱心さをかき立てる上に大いに力があるのは、この掟の中にある「記憶せよ」ということばである。つまり信者たちはこの掟を記憶していなければならないのであるが、これについてしばしば忠告し、教え、記憶させるのは、司牧者の仕事である。
この掟の遵守が信者たちにとってどれほど大切であるかは、この掟を忠実に守ることによって容易にほかの掟も守るようになることで分かる。実際、祝日にしなければならないことのひとつは神のみことばを聞くために教会に集まることであり、こうして神の掟を知れば知るほど、心からそれを守るようになるのである(詩119・33~34参照)。そのため、出エジプトの書(26・23・29、31・13~17、35・2参照)、レヴィの書(19・3・30、23・32、26・2参照)、第二法の書(5・12~15参照)、イザヤ(56・2・4・6、58・13参照)、イエレミア(17・21~27参照)、エゼキエル(20・13~26、22・8、23・38、44・24参照)などの書に見られるように、聖書ではしばしば安息日を守り祝うことが命じられており、これらすべての箇所に安息日の遵守を命じる掟がしるされている。
3 君主や為政者による協力
また君主や為政者たちが、とくに神に対する礼拝を保持し実行することにおいて、自分たちの権威をもって教会の司牧者たちを助け、また信者たちに司祭たちの指導に従うことを命じるよう、かれらに忠告しすすめるべきである。
さて、この掟の説明にあたっては、この掟が他の掟とどの点で似ており、どの点で異なっているかを信者たちが知るようにしなければならない。こうすることによってかれらは、なぜ、安息日ではなく主日を祝し聖とするのか、その原因と理由を知るようになるであろう。
4 第三戒と他の掟との違い
そのはっきりとした違いは十戒の他の掟が自然的なもの永遠のもので、いかなる理由によっても変化することはありえないという点にある。キリスト者が、モイゼの律法が廃止されたにもかかわらず、二枚の石板に刻まれている掟全部を守るのは、そのためである。すなわちそれを守るのは、モイゼが命じたからではなく自然に合致するからであり、この自然の故に人々は掟を守るように求められるのである。しかし安息日を聖とする掟は、一定の日時を定めているという点では、固定したものでも恒常的なものでもなく、むしろ可変的なものである。また道徳に関するものではなく、祭儀に関するものである。さらに、自然的なものではなく、自然がほかの日ではなくこの日に神に外的礼拝をささげるように教え決めたのではない。イスラエルの民は、ファラオンのもとでの奴隷状態から解放されてから安息日を守るようになったのである。
5 キリストのご死去以来、安息日は変わった
ところで安息日の遵守は、ヘブライ人のその他の祭式や儀式が廃止された時つまりキリストのご死去と同時に廃止されるはずであった。なぜならこれらの祭儀は光と真理の表象および影のようなものであり、イエズス・キリストという光(ヨ1・5、3・19参照)と真理(ヨ5・33、14・6参照)の到来によって除去されるのは当然であった。そのため聖パウロはガラツィア人への書簡の中で、モイゼによる祭儀を固執する人々を責めて、つぎのように言っている。「あなたたちは、日と月と季節と年とをこまかく守っている。私はあなたたちのために、無益に苦労したのではないかと恐れている」(4・10~11)。かれはコロサイ人あての書簡でも同じことを書いている(2・16~17参照)。
6 第三戒と十戒の他の掟との比較
第三戒は、十戒の他の掟と比較した場合、祭式や儀式という点では異なっているが、道徳および自然の掟に関するあるものをもっている点で他の掟と同じである。実際この掟によって命じられている礼拝と敬神は、自然の掟によるものである。自然はわれわれの時間のいくらかを神の事柄に用いるように命じている。その証拠にどの民族も、聖なる事柄あるいは神の事柄をとり行うための一定の祭日をもっていた。また人間は一定の時間を、体の休息、睡眠およびこれに類する必然的な機能のためにとっておくのであるが、それと同じく自然は精神にも神についての観想をもって自己を新たにするための時間を与えるのである。このように、われわれの時間の一部が、神的な事柄をとり行い神にささげるべき礼拝をつくすためのものであるとするならば、それを命じる掟はたしかに道徳的掟である。
7 主日は使徒たちによって定められた
そのため使徒たちは、一週の七日の最初の日を神の礼拝にあてること、そしてその日を主日と呼ぶことを決定した。実際、聖ヨハネは黙示録において主日についてのべており(1・10参照)、また聖パウロはある安息日つまり聖ヨハネ・クリソストムスが説明しているように、主日に募金をするように命じている(コ①16・2参照)。このことから、そのころすでに教会では主日が聖日とされていたことが分かる。
ところで、主に対して何をなすべきか、またどのような行為をひかえなければならないか、それを信者たちが知るように、司牧者はこの掟を四つに分けて入念に説明すべきである。
8 「安息日を聖とすることを記憶せよ」ということばの意味
はじめに、「安息日を聖とすることを記憶せよ」ということばによって何が命じられているかを、一般的に説明すべきである。まず、「記憶せよ」と言われているが、それはこの日を聖とすることが祭儀に関係があるからである。つまり自然法はある日時に神に対して敬神の行為をなすことを命じているとはいえ、とくにどの日にそれをなすべきかは指定しておらず、そのためそのことを信者たちに注意させる必要があったのである。
つぎに信者たちに教えるべきことは、このことばは、どのような態度や仕方で一週間の仕事をしなければならないか、言いかえるといつも主日を眼中において働くべきことを示しているということである。われわれはその日、自分の行い、仕事についていわば神と清算するのであるから、それらの働きが神の裁きによって拒否されることのないよう、また聖書にあるように(サ①25・31参照)心の咎めと不安にならないようにする必要があるのである。
さいごにこのことばは、この掟を忘れる機会に事欠かないことを教え、それに注意させている。われわれはこの掟をないがしろにする人々の手本や、見せもの、遊びなどにひかれて、この日を聖とし神を礼拝することを怠るようになるのである。つぎに安息日の意味について考えることにしよう。
9 安息日(sabbatum)という語の意味
ヘブライ語のshabbâthはラテン語に訳するとcessatio(休止)を意味する。したがってsabbatizareはラテン語ではcessare(休止する)、requiescere(休息する)となる。そのような意味で、第七日目はsabbatum(安息日)と呼ばれている。この日、神は世界創造の業を完成されすべての仕事をやめて休息されたのである(創2・2~3参照)。そして神ご自身、出エジプトの書において、この日をそのようにお呼びになっている(20・11、31・13参照)。またあとでは、第七日目だけでなく、ある週そのものが、その尊厳さからsabbatumと呼ばれるようになった。ルカ福音書の、「私はsabbatumに二度断食する」(18・12)ということばは、この意味にとるべきである。以上が安息日という語の意味である。
10 安息日を聖とするとは
安息日を聖とするとは、聖書によると、肉体労働や商売をやめることであり、掟では、「なんの労働もするな」(第5・14)ということばで示されている。それだけではない(もしそれだけだとしたら、第二法の書にあるように、「安息日を守れ」(5・12)と言うだけで十分であったろう)。同じ箇所で、「それを聖とせよ」と言いそえられているところからすると、安息日は宗教的な日で、神の事柄と聖なる務めにあてられた日であることが分かる。したがってわれわれは神に対して信心や敬神の務めを果たすことによって、完全に充実した安息日をすごすのである。イザヤが楽しみと呼んだ安息日はこのようなもので(イ58・13参照)、それは祝日が神および信仰のあつい人々にとっていわば楽しみの日だからである。この同じ預言者は、安息日を聖とすることに加えて愛の業を行う人々に、多くのすばらしい報いを約束している(イ58・13~14参照)。
11 以上の意味の要約
したがって、人間が一定の時間、肉体労働や商売を休み、心と体をもって信心深く神を礼拝しあがめるようにする、というのがこの掟の真の固有の意味である。