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ローマ公教要理 使徒信経の部

使徒信経しんきょう

われは、天地の創造主、全能の父なる天主てんしゅを信じ、
またそのおんひとり子、われらの主イエズス・キリスト、
すなわち聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれ、
ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、
十字架に付けられ、死して葬られ、
古聖所にくだりて三日目に死者のうちよりよみがえり、
天に上りて全能の父なる天主てんしゅの右に座し、
かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために
来たりたもう主を信じたてまつる。
われは聖霊、
聖なる公教会、諸聖人の通功、
罪のゆるし、
肉身のよみがえり
終りなき命を信じ奉る。アーメン

 使徒信経の部 索引ページ

目次

序文
第一章 信仰と信経について
第二章 第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第三章 第二条 われらの主イエズス・キリストを信じます
第四章 第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第五章 第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第六章 第五条 古聖所(Inferi)に下り、三日目に死者の中から復活された
第七章 第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第八章 第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第九章 第八条 聖霊を信じます
第十章 第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第十一章 第十条 罪のゆるし
第十二章 第十一条 体の復活
第十三章 第十二条 永遠の生命を信じます

IMPRIMATUR:
Kyoto, die 7 iunii, 1974
+ Paulus Y. Furuya
Episcopus Kyotoensis

岩村清太・訳編
昭和49年〔1974年〕6月20日初版発行
昭和56年〔1981年〕3月19日第2版
訳者 岩村清太
発行人 財団法人 精道教育促進協会


序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について
またキリスト教のおもな教義について

1 人は自分の力だけで真の英知を知り、至福に至ることはできない

人間の知性や思考というものは、多大の努力と労苦を重ねて探求することにより、神について多くのことを知りうるようにできている。さて人間は永遠の救いのために、神のみ姿に似せて造られたのであるが、その救いを得るための手段全般についていうと、人間本来の力だけでは決して知ることも手に入れることもできない。

もっとも聖パウロが教えているように、「神の不可見性すなわちその永遠の力と神性とは、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人々にとっては、見えるものである」(ロ1・20)。しかし代々にわたって隠されていた奥義は人間の知性を越えるもので、もし神が信仰をとおして、キリストという異邦人への奥義の光栄の富を聖徒たちに知らせようとされなかったならば(コロ1・26~27参照)、人間がどれほど努力しても、この英知を知ることはできなかったであろう。

2 どのようにしてこの素晴しい信仰の賜物は得られるか

信仰は聞くことからはじまる(ロ10・17参照)。したがって永遠の救いを得るためには、正統信仰をもつ熱心な教師の努力と奉仕が必要であることは明らかである。実際、つぎのように書かれている。「宣教するものがなければどうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう」(ロ10・14~15)。そして慈愛深く寛大な神は、世の初めから、ご自分に属する人々を決してお見捨てにならなかった。むしろ何度も、いろいろな方法で、預言者を通じて先祖にお語りになり(へ1・1参照)、それぞれの時代の状況に応じて、天の至福に至るためのまっすぐで確実な道をお示しになった。

3 キリストと使徒たちおよびその後継者たちによる教え

さらに神は、国々を照らす光となり地の果てまで神の救いをもたらす、正義の教師を遣わす約束をされていたが(イ49・6参照)、ついに御子を通じて私たちにお語りになった(へ1・2参照)。そしてかれの言うことを聞き、その命令に従うよう、厳かな栄光のうちに天からの御声をもってお命じになった(ぺ②1・17参照)。その後、御子はある人々を使徒にし、ある人々を預言者にし、ある人々を牧者や教師にして(エ4・11参照)生命のみことばを伝えさせ、私たちがいろいろな教えの風に吹き廻されほんろうされる子供のようになることなく(エ4・14参照)、神の住まいとなるために信仰を土台に聖霊によって建てられるようにされた。

4 司牧者たちの教えを聞く態度について

教会の司牧者たちが説教する神のみことばは、人間の言葉としてではなくむしろまことのキリストのみことばとして受け入れなければならない。私たちの救い主は、「あなたたちの言うことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ル10・16)とおおせられて、かれらの教えにそれだけの権威をお与えになっている。この主のみことばは使徒たちだけについて言われているのではなく、かれらの正統な後継者として教職を引き継ぐ人々についても言われており、主はかれらとともに世の終りまでいると約束されたのである(マ28・20参照)。

5 牧者たちによる教えの必要性

教会は神のみことばの説教を決して絶やしてはならないのであるが、とくに今の時代にあってはより一層の敬虔と熱心さをもって健全な教えの食物を信者たちに与え、かれらを養い強めていかなければならない。というのは、主が「私はそんな預言者を送らなかったのに、かれらは走り寄って来た。私はかれらに話さなかったのに、かれらは預言する」(イエ23・21)とおおせられた偽預言者たちが出て、さまざまな変った教えをもって信者たちの心を惑わせようとしているからである。このようなかれらの不信仰は、悪魔のあらゆる奸策に助けられて、どこにも封じ込めえないほどに広まっている。そして、ご自分の教会を堅固な基礎の上にお建てになり、地獄の門もこれに勝てないとおおせられた(マ16・18参照)救い主の力強いお約束に支えられないかぎり、これほどの敵にあらゆる方面からいろいろの武器をもって攻め立てられる今日の教会は、打ち倒されるのではないかと大いに気遣われるほどである。実際、昔は先祖から真のカトリックの教えを受け継ぎ熱心にそれを守っていたが、今は正しい道を捨てて迷い先祖の教えから遠ざかりながら、自分は信仰を守っていると公言する有名な地方もあるが、そのような地方は言うに及ばず、キリスト教国のどのような片すみでも、このような疫病が忍び込むには余りに遠いとか、または十分に防禦ぼうぎょされているとか言えるような場所は全くない。

6 異端者による要理教育

信者たちの心を腐敗させようともくろむ人々は、公の説教をもって有毒な教えを吹き込むことが不可能であると知っているので、ほかの方法を用いてはるかにたやすくまた広く、不信仰の誤謬を広めようとした。かれらはカトリックの信仰を覆そうとして大著作をあらわしただけでなく(これらははっきりとした異端を含んでいるので用心しなければならないが、それを見分けるためにはおそらく大した努力も技倆も必要としないであろう)、無数の小冊子を書いている。それらはまことの信仰の外見をもっていて、無防備で単純な人々をどれほどやすやすとだましたことか、信じられないほどである。

7 トリエント公会議がとった対策

そのためトリエント公会議の教父たちは、これほどまでに有害な悪に対して何らかの救済手段を講じようと切に望んだ。そのためにはカトリック信仰のおもな項目を確認するだけでは不十分と考え、信仰の基本的な事柄を信者たちに教えるための、一種の大要と理論を含んだ書を著わし、それを全部の教会で正統な司牧者や教師に使用させるようにした。

8 教理提要の作成

これまでにも多くの人が深い信仰と学識を傾けて、そのような書物を著わした。しかし教父たちは、主任司祭その他教えの役務にたずさわる人々が信者の教育のために確実な教えをくみ取ることができるような本を、聖なる公会議の権威のもとに出版することはきわめて大切なことであると考えた。それは、「主は一つ、信仰は一つ」(エ4・5)であるように、信者たちに信仰と信仰によるあらゆる務めを教えるための方法や基準も一つにするためである。

9 提要は教え全部を含まない

さて、キリスト教信仰告白に関する事柄は数多くあるのであるから、公会議が一冊の本でキリスト教教義全部をくわしく説明しようとしているなどと思ってはならない(そのような説明は、キリスト教全体の歴史および教義の説明を専門にしている人々によってなされるはずであり、またそのような仕事はいわば際限のないもので、公会議の手に余ることは明らかである)。公会議は主任司祭やその他、霊魂の司牧にたずさわる司祭たちに、司牧に適した事柄で信者たちが理解できる程度のものを教えることを目的としている。したがって、神に関する事柄でより難解な点について自信がなく、熱心に研究しようとする司牧者たちの助けとなる事柄だけを取り上げたのである。

10 司牧において心すべきこと

この教えの大要を含む各条の考察に入るまえに、ものの順序として、司牧者たちが眼前にし黙想しなければならない、いくつかの点について述べなければならない。それによってかれらは、自分たちの教え、努力、熱意すべてをどこに向けなければならないか、またどのようにすれば目指していることをより容易に達成し実現できるかを知るようになるであろう。

まず常に記憶しておくべきことは、キリスト者のもつべきすべての知識はつぎの主のみことばに要約されているということである。「永遠の命とは唯一のまことの神であるあなたと、あなたがおつかわしになったイエズス・キリストを知ることであります」(ヨ17・3)。したがって教会の教師たちは信者たちに、十字架に付けられたお方イエズス・キリストを知りたいという熱い望みを起こさせるよう努力すべきである(コ①2・2参照)。またかれらが深い信仰と敬虔をもって、「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられなかったこと」(使4・12)、かれだけが私たちの罪のためのいけにえであることを納得し確信するようにしなければならない。

さらに、「私たちが掟を守るなら、それによって、かれを知っていることがわかる」(ヨ①2・3)のであるから、上述したことと関連して言えることは、キリスト者は無為と怠惰のうちに日々を送ってはならず、主が歩まれたように自分も歩むべきで(ヨ①2・6参照)、あらゆる努力をもって正義、敬虔、信仰、愛、寛容を身に付けるようにしなければならない。聖パウロは、「イエズスは、私たちを罪からあがない、善業に熱心な民を、ご自身のために清めようとして、私たちのためにご自分をお与えになった」(ティト2・14)と言い、司牧者たちがこのことを教え勧めるように命じている。

私たちの主なる救い主は、律法も預言者も愛の掟に基づいていること(マ22・40参照)を、ことばだけでなく身をもってお示しになった。また聖パウロは、愛は掟の目的であり(ロ13・8参照)律法の完成であると確言している(ロ13・10参照)。つまり信者たちが、私たちに対する神の無限の慈愛を愛をもって受け入れ、神的熱心さに燃えて、あの最高、完全無欠の善へと駆り立てられ、この善を得ることが真の確かな幸福であることをはっきりと悟り、預言者と一緒に、「天には、私にとってあなた以外の何ものもなく、あなたと共にあれば、地は私を楽しませない」(詩73・25)と言うことができるようにすることこそ、司牧者のおもな務めであることを疑ってはならない。これこそ聖パウロが示したよりすぐれた道であり、自分の教えと説教全体の要約として示した、決して絶えることのない愛である(コ①12・31~13・8参照)。信ずべきこと、希望すべきこと、また実行すべきことを述べるにしても、いつも私たちの主への愛を強調しなければならない。それはだれもがキリスト教的完徳のすべての業は愛以外の起源をもたず、また愛以外の目的をもたないことを悟るようにするためである。

11 すべての人に適した教え方をすること

何を教えるにしても、その教え方がきわめて大切であるが、キリスト者に教えるにあたってはなおさらそうである。実際、かれらの年令、知能、生活、身分を考慮しなければならない。教職にたずさわる人は、すべての人をキリストのものにするためにすべてとなり(コ①9・21参照)、忠実なしもべ、分配者として行動し(コ①4・1参照)主人から多くのものを任せられた、善良で立派なしもべになるようにしなければならない(マ25・23参照)。

さらに、自分にはただ一種類の人々だけが任されていると思い、命じられた確実な方法をもってすべての信者にまことの信仰を教える必要はないなどと考えてはならない。むしろその反対で、ある人々は新たに生まれたみどり子のようであり(ぺ①2・2参照)、ある人々はキリストにおいて成長しはじめており、またかなり多くの人々はいわば成人である。そのためある人々には乳が、ある人々には固い食物が必要であり(コ①3・2参照)、それぞれの人に適した教えの食物を与え、「ついに信仰の一致と神のおん子の深い知識に達し、みちみちるキリストの背丈にまでいたる、完全な人間をつくるために」(エ4・13)霊魂の生命を育てていかなければならない。この点について聖パウロは、自分はギリシャ人にも蛮人にも、知者にも無学者にも借りがあると言い(ロ1・14参照)、自分をまねるように勧めている。かれはまた、教職に召された人々は信仰の奥義と生活の掟を教えるに当たって、それを聴衆の知能と知識に合わせなければならないことを示しているのである。それは成熟した知能をもつ霊魂を霊的食物をもって飽かせるためであり、また幼児がパンを願っているのにそれを分け与える人がいないために餓死させることのないためである(哀4・4参照)。

また時として、単純で初歩的な事柄を教えなければならず、しかもそれはより高度な内容の研究にたずさわりそれに喜びを見いだしている人々にとっては苦痛であるが、だからといってそのために教える熱意を冷めさせるようなことがあってはならない。永遠の御父の英知そのものであるお方が、天上の生命の掟を教えるため私たち人間の弱さをおとりになりこの地上に来られたのであれば、このキリストの愛に動かされて自分の兄弟たちの間における子供のようになろうとしないもの、あるいは子供たちを養い育てる乳母のように隣人の救いをあつく望まないものはだれもいないであろう(テ①2・7参照)。

聖パウロは、神の福音だけでなく自分の命までも与えようと思うと言っている(テ①2・8参照)。

12 教えの源泉は聖書と聖伝である

さて信者たちに教えなければならない教えの内容は、すべて神のみことばに含まれており、このみことばは聖書と聖伝に分けられる。したがって司牧者は日夜これらを黙想すべきであり、聖パウロがティモテオに書き送った勧告は、霊魂の世話を任された人々全部に向けられていることを忘れてはならない。「読書、いましめ、教えをおこなえ」(ティ①4・13)。「聖書はみな神の霊感を受けたものであって、教えのために、いましめのために、め直すために、正義を教えるために有益である。こうして神の人は完成し、すべての善をするために備えられる」(ティ②3・16~17)。

しかし神が啓示されたことは数多くいろいろあって、教える際その準備や説明が十分できるほど理解することも、また理解したことを記憶しておくことも容易ではない。そのため私たちの先祖は賢明にも救いの教えの全内容を、使徒信経、秘跡、十戒、主祷文の四項目に分けて編纂したのであった。

実際、神に関する知識や世界の創造と支配、また人間のあがない、善人に対する報いと悪人の罰に関するキリスト教信仰はすべて、信経の中に含まれている。

また神の恩恵を受けるためのしるしと道具は、七つの秘跡の部に含まれている。

愛を目的とする掟については、十戒のところで説明される。

そして人々が望み、希望し、また救いのために願い求めることのできるものは主祷文に含まれている。

したがって、いわば聖書と共通の源泉であるこれら四項目を説明することによって、キリスト者は知っておくべき事柄をほとんど全部知ることができるであろう。

13 福音の説明と要理教育との併用

そのため司牧者は、福音のある箇所または聖書のほかの箇所を解釈するにあたって、必ず右に上げた四項目のうちの一つに当てはめ、そこから説明の内容を取り出すようにすることを勧めたい。

たとえば待降節第一日曜の、「日、星に、しるしが現われ……」(ル21・25)という福音の箇所を説明する場合、これについては、「主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる」という信経の箇条ですでに説明されている。司牧者はそれらの説明を用いることによって、福音の信経とを同時に教えることができる。であるから司牧者は教えたり聖書を解釈したりするときはいつも、聖書の意味内容全体を含むと思われるこの四項目にすべてあてはめて説明する習慣を守るようにすべきである。

教える順序については、聴衆とその場に適していると思われる順序に従うべきである。教父たちは主キリストとそのみ教えを人々に手ほどきするにあたって信仰に関する事柄からはじめているが、私たちもそれにならい、本書ではまず、信ずべきことから説明していくことにした。